再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 仏道とは何か?!

<<   作成日時 : 2013/06/16 04:38   >>

トラックバック 0 / コメント 2

画像


花はみな沖の高さに立葵 玉宗

人生とは何か?
生まれて、生きて、死んでいく。それだけのことである。それだけのことにどれほど人としての眞を尽くすことができるか。それが試されているのだと思う。悪人だろうが、善人だろうが、聖であろうが、俗であろうが。諸行無常にこうでなければならない生き方といったものはない。どう生きたっていいのである。人生は予定調和ではない。
善も悪も聖も俗も、光りと影も、すべて私の内と外に胚胎している可能性である。生きる責任?それは自己であるに決まっている。誤魔化しのきかない世界であるからこそ、可能性は可能性としてあるのではないか。

人間はだれもが片足を現実と理想に足を跨いで生きていく。絶望も希望も現実と理想の中で生きている人間の弁明である。いのちが可能性としての存在でないのだとしたら、そこには絶望も希望もなかろう。いのち生きる意味もない。自己が自己であるより意外にいのちの目的があるとはどうしても考えられない。それぞれがそれぞれの絶対性を生きている。というより生きることそれ自体が絶対性の在り様だろう。

画像


仏道とは何か?
生まれて、生きて、死んでいく。仏道も又それだけのことである。仏道は何かを付け足すことではない。そのような自己に目覚めて生きる。自己限りのいのちの話である。

相対的世界と共にそのような絶対性の領域でいのち足り得ているといった信念がある。信仰がある。社会性がある。生き方がある。仏道は私は私でもの足りていると諭している。自己の可能性の道を歩めと言っている。拘り、執着すべき自己は妄想であり、全て自己の鏡に映る世界であり、世界の鏡に映る自己であると言っている。逃げようも隠れようもない。自己とは途方もなく捉え難く、なきに等しい存在であると言う尊厳がある。自戒とはそのような世界と一体であると目覚めることであり、いのちに箍を嵌めることではない。いのちは奔放なものではない。どこかかたちを欲している。解放とはかたちあっての話だ。自分勝手のし放題という代物ではない。いのちは秩序を探っている。死もまたいのちをいのちあらしめる秩序の姿である。

人生とは何か?
すべて、世界は私に拘ることの愚かさを教えている。諸行無常にして諸行無常し去る。それ以外のどこにいのちの面目を求めていいのか私には見当がつかない。

画像



「早苗月」

闇を負ふさみだれ月のしづけさよ

六月や瑞穂の国の闇匂ふ

雨安居の髭剃る後架の手暗がり

五月雨に子を捨てかねて唄ふなり

姥捨ての山の方より青葉木菟

飯饐ゑて路頭に迷ふ味したり

かはほりや港に上がる三日月

ややこしさ棚上げにして心太

ものぐさの足なげだして簾かな





ランキング応援クリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ




テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
 今日叔父の火葬に行ってきました。「無宗教だから」という理由でお坊さんはなし。葬儀もなし。叔母は半狂乱で棺にすがって泣き崩れていました。香典も辞退、ということで初めての経験でした。夫が「シンプルでいいかも」と言うのに、にわかには肯けないのでした。いろいろな終わりの送り方があるでしょうが、独りよがりは周りに不安のさざ波を起こすような気がするのです。叔母はこれからどうやって生きていくのか、お骨はどこに収めるのかも含めて、心配の感がぬぐえません。
くろちゃん
2013/06/16 20:41
くろちゃん樣。
どうやって死ぬのか?それはどうやって生きていくのかという姿勢を離れてあるものではないのでしょうね。それにしても現代人にとって「社会」というものが如何にも狭いものになっているのですね。見方を変えれば、一人ひとりが傲慢になったのでしょうか?そうは思いたくはありませんが、死と共にあるいのち。それがいのちの深さ、豊かさであることを忘れたくないですね。お大事に。合掌
市堀
2013/06/16 22:08

コメントする help

ニックネーム
本 文
仏道とは何か?! 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる