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zoom RSS 井上義衍老師の世界「分別と無分別」

<<   作成日時 : 2013/06/22 04:15   >>

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夏至の日のしづかな海を見てゐたる玉宗

知る人ぞ知る、故井上義衍老師は参禅に於いて現在も忽せならない存在として輝き続けている師家である。遺弟が編集したであろう<義衍語録>なるものがある。その一部かと思われるものを挙げさせて戴く。


<義衍語録>

●六根という機能、この道具立て自体に全部を任せてしまえばいいのです。これが修行の着眼点です。
●決まりのないものが、決まりのないままに、自由に他意なく活動する状況が因果である。
●縁起(よりて起こる)私と私以外のもの、眼とものが触れ合うと、見えるという生命が生まれる。それを仏性という。
●六官の作用そのままに、一切の探りをみな捨てて、ただ生(なま)で、その時、その時に、ただそのことでやってごらんなさい。そうすると必ず解決ずみであることが「あ、本当じゃ」ということが、はっきりするのです。
●いきなり、そのままの状態にブチ当たったらよい。それが悟りという体験です。
●徹するということは、どういうことかといいますと、自分も、ものも何もかも、本当になくなってしまう様子があります。そこまで、本当に落ちてしまうと初めて納得ゆく。

●禅は、自分の事実を実証する道である。事実は自己の現成である。
●脚下照顧とは、今の己の在り方、その事実に眼をつけてゆくことである。
●自分を抜きにした生活は在り得ない。自分そのものに学ぶ、自分そのもので生活をする。それを坐禅という。
●その時、その時の動きだけで全部足りている。
●地球上にある、すべての問題は人間が作った。ゆえに人間が解決できないことはない。
-以上 平成25年 龍泉寺カレンダーより-



ここにあるのは世の分別知を越えた世界。禅の真骨頂を体現した本物との評価がある。彼の板橋禅師も生涯の参禅の師と公言して憚らない。無分別智こそが迷いの根源を切るという仏道の指標を繰り返し諭しているように思える。直に根源を切るは仏の印するところとも云われる仏道の世界である。煩悩を「直に切る」ことを躊躇う人間には噛みあわない文脈がここに流れているだろう。

分別は人間性の持つ宿命とも言うべきものではある。然し、それは苦悩や迷いの根源ともなる両面の刃である。分別は無分別という鞘を必要としているかの如きである。仏道とは竟にその宿命を人間性を越えた領域に活かすことであって、無闇に有難がるという話しではない。ぶれない生き方、いのち真っ直ぐな戴き方が求められている。生身の活き活きとした仏道が今に引き継がれている。

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 「夏至」

夏至の日のしづかな海を見てゐたる

夏至といふ空の涯を見るごとし

愚かなる五体昼寝に用立てる

紫陽花を叩きのめして通り雨

白南風や海女が黒髪梳る

梅雨重く賽銭箱が頑として

十薬や仄かに白き足の裏

海に向く足の裏より雲の峰

ほうたるの夜にまみれし手を握る

虹立ちて空に栞のやうなもの





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