再生への旅

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zoom RSS 「空」に生きる

<<   作成日時 : 2013/06/25 02:46   >>

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こもりくの藍を流して夏の川 玉宗


井上義衍老師の提唱に次のようなものがある。
<本来空>ということにつて、

「我見をこれから離れるのではない。
我見の起こる前があって、その前が自分の事実です。それが本当の私どもの心の在り方です。
我見といわれるものは、認識作用で何も実体はないのです。
空(くう)にする前に空であった事実が、そのまま「ズバッ」と、みな。それだけでいいんです。それをやると、必然的に人我(にんが)の見(けん)というものが、みな離れる。それが「道(みち)」です。それが座禅の一番大切な様子です。」



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分別以前の事実が「道」であるとは、いのちをまるごと受け入れろと言っているのである。お前はどっちを向いて歩くのか、どっちを向いて生きていくのか?われわれは何を支えとして人生を歩んで行くのか?先ず、その価値観の選択がここにあることを忘れてはならない。欲望や分別知に左右されない自己のいのちの事実に随順できるかが問われているのである。ここには我見を離れた世界の様子が指月されている。教外別伝されている。帰家穏坐の落着ぶりが不立文字されている。無分別の安心が言詮不及されている。

分別や欲望が悪だというのではない。いのちの事実そのものを尊いとするものに、分別知や欲望界隈などの実体のないものを頼りとする理由などどこにもないということだ。諸行無常の激流の人生である。荷物は少ない方がよかろうし、出来ることなら手ぶらで、本来無一物で生きていきたいといった志も分かろうというものである。一切皆空の、こだわりのない、自在な、ありのままの世界、究極の無執着の世界とはそのような自己決着の果ての世界であろう。分別を越えた世界と一体となる。それを出家とも、仏道とも云うのである。

「空」に生きるとはそのような覚悟を世に提示していることに他なかろう。私はそう思っている。

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「夏の川」

暮れなづむ闇より碧き夏の川

違ふ世の夏の河原に出てしまふ

被害者の如きこゑあげ白鷺は

暮れてゆく水の行方や火喰鳥

蠛蠓やかはたれどきは手を垂れて

うつろなるものをこらへて滝の前

親戚がわがもの顔に立葵

殿はぶつくさ云ふて蟻の列

桑の実を手に妻もまた淋しからむ

昼寝覚つくづく親のなき世かな






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