再生への旅

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zoom RSS めぐりあうべき自己とは?!

<<   作成日時 : 2013/06/27 04:30   >>

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きのふよりけふのあかるさ金糸梅 玉宗

私の中にある「自見へのこだわり」を離れない限り、どこまでも「つまらない・もの足りない」世界がついて回る。環境を変えることが自己変革の一つの契機になることも否定はできないが、そのような自己を解決、決着しない限り同じ苦悩を繰り返すことは目に見えている。自己から逃げ回った挙句に、行き詰り、自己からは逃げられないことを知る。人間とは実に手間の掛る動物ではある。

人は人それぞれのやり方で自己に答えを出してかまわないし、出さなくてはならない。
急がば回れということもある。もっとひろやかな世界へ出てみたいとだれもが思っている筈だ。仏の世界が窮屈なものであってはならない。もっと諸行無常の現実から学ぶことがある筈だ。もっともっと予想外の出会いがある筈だ。自己を虚しくして、自己に拘らず、日々の新鮮ないのちを受け入れ、真っ直ぐ自己の力、可能性を尽くしていたいと誰もが願っているだろう。

仏道と雖も、生まれて、生きて、死んでいくだけである。何かを付け加えたり、嵩を増すことではなかろう。まっさらな自己のいのちを、ありのまま戴き、施す。今の新鮮な、いのちに立ちかえる。毎日が新鮮な自己との出会い。その繰り返し。仏道の志とはそのような差し引き零の次第を言うのだ。

失望や絶望はいつでもできる。人生はいつも初体験である。いつも初体験の本番である。絶望する理由が本来無いのだ。少し、肩の力を抜いて、深呼吸してみるがいい。
ぶれない生き方を教えてくれるのは何か?自己の今を余所に置いてその答があろうとも思えない。

行き詰るのは自見が行き詰るのである。本来なんともないいのちがそこにある。めぐり会うべきはそのような次第の自己である。


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「実梅」

胸板を叩く音して実梅落つ

野に紛れ風に紛れて忘草

木耳にけものの息の風通ふ

木耳を噛めば海馬に響く音

木耳の風に怯ゆるかたちして

咲くことの力を抜いて花菖蒲

眠くなる肉のひだるささみだるゝ

目覚めよき赤子を包む喜雨の音

でたらめに揚げて花火の終りけり

てのひらを蓮のかたちに螢受く

地を歩き死にゆく朝の螢かな

まほろばの巌をぬらし滴りぬ

底抜けの空を背負ひて泉汲む

だれよりもきれいな顔が虹仰ぐ

泉へとみな贖罪の手を垂れて





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