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zoom RSS 今日の教外別伝・究極の現世利益?!

<<   作成日時 : 2013/07/11 03:24   >>

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かんばせのほころぶやうに蓮の花  玉宗

「現世利益」とは何か?

面白いことに、宗派によって「現世利益」が微妙に、或いは明らかに違っているようだし、中には否定している宗旨もあるようだ。「現世」とは抓れば痛く、息を吸ったり吐いたりしている諸行無常の「今の事実」であるとの認識は共通していると思うのだが、要するに、そのような条件下の人間にとって何が「究極の利益」であるのかという宗派の方に拘りがあるのだろう。然し、どうなんだろう。人は「究極の利益」などを望んでいるのだろうか?誤解を恐れずにあえて言うが、どうも、そうでもないように見受けられる。「無宗教時代」と喧伝されても一向に無風状態の社会を見ていると、「ほどほどの利益」というのが実際のところではないのかと言いたくなる。

生きてあるうちにいい思いをしたい、という人情、欲望はよく解る。分り過ぎるほどだ。人に言われるまでもなく、人間は「死」が避けられない「限られた命」であることを知っている。そして、その避けられない不条理な事実を如何にしてわがものとして手なずけて行くのかが人生のようにも見えて来る。不条理と言えば「生」もまた同様に不条理である。全て不条理と言ってもいい。
ところが、視点を変えれば全て私なしの条理でもある。認めようが認めまいが、私がいようがいまいが、誤魔化しのきかない世界でもある。吉凶禍福、凡聖正邪、いずれにしても人間は「究極」のところに中々耐え得るものでもないのが一般である。煩悩とはそいうものだ。

あるタレントが「生きているだけで丸儲け」というようなことを言っていたと記憶しているが、確かにそれは真実であろうと思う。問題は「生きているだけ」の命で済ましているのかどうかだろう。事はそんなに単純ではない。
自己切りの命を「丸儲け」として充足安心して他者との兼ね合いなし生き切ることができているかどうか。その実態は、自己の命の深さに親しみ、落着する覚悟が試されている。心静かに自己の欲望の有り様を点検してみなければならない。妄想を重ねた自己満足の世界に滞っている可能性がないとは言えない。

道元禅師は「眼横鼻直」を大悟せられた。それ以外に一毫の仏法もないのだと。だとしたら「仏法」とは「あるべきところにあるまでのこと」ということになる。自己を、命を弄らない。「あるがまま」で生きること。それがどんなに容易ならざることか。ことはそう単純に運ばない欲望の現実があり、そこに「仏道」という一つの「自己制御」に生きる姿勢が示される。そのような「道」を「現世利益」として人生を歩む人間もいるのである。自己の選択した現世利益を生きるとは、究極の自己責任の世界でもあることを知らなければならない。

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 「顔」

かんばせのひらくと見えて蓮の花

雲の峰死出の旅路の顔仰ぐ

炎天を顔に影して人歩む

緑陰に貌を失くして佇める

極楽を見てきた貌で羽抜鶏

蟇憤怒の貌もならぬなり

はんざきのかほといふには横着な

湯に浸かる顔して母の夕涼み

天道虫諦め顔で降りて来る

沢蟹の喜ぶ貌が星を追ふ

蜊蛄の孤独や貌が尖るほど




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