再生への旅

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zoom RSS 清浄大海衆・夏安居解制

<<   作成日時 : 2013/07/17 04:28   >>

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解夏の僧らしきが駅をうろつきぬ 玉宗

大本山總持寺祖院専門僧堂の夏安居が解制となった。
三ヶ月間の夏籠を経た大衆さん達。一つの安居を体験する度に人間臭さが抜けていくものだ。僧堂生活の中で芋の子を洗うように角が取れることは勿論、仏道が単なる競争ではない自己決着の孤独な道程でもあることを知るであろう。安居とは自己の正体をあきらめ自得する場であり、縁であり、有時であり、一大事因縁なのである。

その修行僧が「雲水」と呼ばれていることは一般的にも知られているようだ。「雲水」は「雲心水意」の略でもあるが、雲や水の如く捉われのない飄々たる仏道修行者の姿を代弁している。
ところでもうひとつ「大衆・だいしゅ」とう呼称がある。門前ではこちらの方が一般的である。町の人たちは「大衆さん」と敬意を込めて言い習わしている。「大衆」つまり「清浄大海衆・しょうじょうだいかいしゅ」の略称である。

「清浄なること、大海のごとき和合僧」

清浄大海衆

【定義】

出家教団や叢林などに修行する大衆のこと。インドの四大河の水が海中に入れば、元の川の名前を捨てて、全て一味の海水と呼ばれるように、出家すれば以前の種姓名に関わらず、解脱一味の清浄衆となることを指す。

寮中の清浄大海衆、乃し凡乃し聖、誰ぞ測度する者ならんや。 『衆寮箴規』< つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉>より



清浄とはあるがままということだ。凡は凡で清浄。聖は聖で清浄。迷悟も生死も、自他も、過去現在未来も、欲も無欲も、すべて本来清浄、あるがままなのである。仏道はなにかを付けたしたり、差し引いたり、捻じ曲げたりすることではない。本来なるいのちの実相を本末転倒する妄想、執着、二見を離れて直に生きる。それをしも解脱とはいうのではなかろうか。
仏弟子はそのような生き方を以って自己に接し自己を離れ、人に接し人を離れ、社会に接し社会を離れ、山に入り山を下り、巷間に紛れる。それは清浄なる大海にしてはじめて為し得る奇跡なのであり、仏道の社会的貢献とはそのような次第の無用の用であり、夏炉冬扇であり、諸行無常の学び方の典型なのである。


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「盛夏」

身ひとつを晒してゐたる盛夏かな

おそるおそる覗きこみたる箱眼鏡

夜濯の妻の鼻唄星つどひ

西瓜売尻を叩いてみせにけり

草笛を吹く眼差しの遙かなる

裸子の裏表なき眩しさよ

光陰に先立たれたる端居かな

知らぬ子が庭に来てゐる蜻蛉かな

帰省して持て余しゐる五体かな

鮎釣の竿の先よりあさぼらけ






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