再生への旅

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zoom RSS 清濁併せ呑む

<<   作成日時 : 2013/07/26 05:06   >>

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暁の夢のつづきや不如帰 玉宗

夫人に言わせると私は人を見る目が偏っているのではないかという、お坊さんらしからぬ評価を頂いている。
事あるごとに人の裏面を指摘するかららしい。私自身、善意を認めるのに吝かではないし、善意を楯に生きていきたいと願っている方ではあろうと自認している。が、人の善意というものが当てにならないものだということも夫人には言いたいのである。善意で全ての事に当たろうとする夫人が危なっかしくてしょうがないのである。騙されても、笑われてもいい、自分が善意を以って生き、人に対し、人の善意を信じるという夫人の生きる姿勢を美しいとは思っているが、性善説、性悪説という人間性の分類を捨てきれないそのような視野こそお寺の人間らしからぬ脇の甘さではないかと危惧するのである。

全ては、自己を省みるところから始まる。
善意と悪意というが、善悪に定めなく、又、人の意そのものは善悪以前の因縁生のものであろう。環境が人の意を作る、社会が人の意を作る、時間が人の意を作る、自己が自己の意を作る、他者が自己の意を作る、他者が他者の意を作る。、人間関係が人の意を作る、仏が人の意を作る。いづれも真実であろう。

理想通りにはならない現実で、善意に溢れた人間の美しさに感動することも事実であるが、その感動も又曲者である。本来、悪人というものはいない。本来、善人というものはいない。それが仏教の人間性洞察のスタンスではなかろうか。仏教における人間観察は容赦ないとも言えよう。あるがままの命とは私の都合や欲望を遥かに超えてニュートラルなものの見方が求められている。実相とはそういうものだ。

だからこその関係性の重視なのである。だからこそ身を捨て心を捨てることを尊いとするのである。人は人として生れてはきていない。人となるために生まれ、生きていくのである。現実は無常である。情のある人間の命も又その例外ではない。善意、悪意、その両方に傾斜する可能性を備えている人間性。善悪は無情にして無常である。だからこその世界との一体化するに無私であることが求められるのであろう。

善悪を越えた命の彼岸、実相に価値を見出す生き方がある。清濁併せ呑んでいる実相を見る目。それは人を見るにも、自分を見るにも欠かせない眼差しであろう。目は外に向き、そして内にも向いている。足は地に立ち空にも立っている。

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「冷し汁」

手花火を父のなき子に持たせやる

たらちねのふとろこに寝ね青葉木菟

水虫と言ひしばかりに見下げられ

父が坐りはじまる夕餉冷し汁

河童忌の雨に暴れる名無し川

水底に昃る木漏れ日あめんぼう

金魚売人身御供の顔をして

甲虫ゼリーを分けてもらひをり

なけなしの知恵絞りをり蝉しぐれ

夏霧に突き当たりたる別れかな





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