再生への旅

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<<   作成日時 : 2013/07/27 05:11   >>

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墓洗ふ不肖の弟子でありにけり 玉宗

北陸は梅雨が明けたのか開けないのか分からないが、昨日は朝から天気もよく、30度を越える暑さの中墓掃除作務に汗を流した。

興禅寺と移転前の永福寺歴住の墓が門前町の「亀山墓地」にある。この墓地は国有地であったものを払い下げを受けて今では總持寺祖院が管理している。總持寺に北面するように「亀山」と「鶴山」がある。元々、寺領であったのに違いない。

墓地の中心には大本山總持寺二代樣を中心に五院開基の諸禅師の墓が立っている。↓
御開山瑩山禅師の墓は亀山墓地ではなく、法堂傍近い東面の地にある。

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二代樣の墓を囲むように本山、ならびに五院門葉で亡くなった亡僧の墓が累々と立っている。本山移転後、そして能登半島地震以後は管理もままならないのか、無縁墓地と化したような有り様である。總持寺700年の歴史に埋もれてしまったであろう夥しい修行者の数。修行のさ中で命を落とした者もいたであろう。墓も建てることもなく歴史の向うへ消えて行った名もなき修行者もいたことであろう。

そのようなことを思うと自然と胸に迫って来るものがある。墓というかたちの意義を否定する生き方もある。物理的に言っても夥しい数の墓群を見ていると、永遠を夢見る人間の哀しい性にも思えて来るのも事実である。そうではあるが、わたしのような意志薄弱の人間には「死者」と真向かい、「諸行無常」と真向かう「私だけの空間・私だけの場」が必要なことも事実である。「墓」はその一つの方便である。

死後のことを思わないではないが、それは遺った者がいいようにしてくれるであろう、くらいに構えている。
今生を精一杯生きることができたならそれでいい。私も又、一人の名もなきお坊さんとして埋もれることを願っている。


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「墓洗ふ」

躓くほどの小さき墓を洗ひけり

掃苔のやがて一人となる二人

うつろなる空に漲る蝉しぐれ

虹の向かうに忘れて来たる墓標かな

死ににゆく蝉の迷走ぶち当たる

炎ゆる日の靴音聞こゆ白昼夢

散るために木槿は咲いてゐるらしき

端居より少し老いては戻りけり

向日葵の花地に斃れ起き上がる

二階より父の虫干し見てゐたり

おほかたは類相の山曝書せり







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