再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 花は愛惜に散り

<<   作成日時 : 2013/07/28 03:46   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


明日知れぬ命に摘める夏花かな 玉宗

来月3日には興禅寺の山門施食会法要を控えている。
そろそろ準備に取り掛からなければならない。墓掃除は一通り済ませた。供花も用意しなければならないのだが、例年檀家さんの生花を分けて貰っている。今年は天候不順なのか、花の端境期なのでもあろうか、余り供花となりそうな花が目に付かない。まあ、なんとかなるだろう。
お盆が近くなると特に感じることではあるが、この世とあの世、冥界へ思いを馳せることが多くなる。生きている今の私、生きている私の今とは、過ぎ去ったいのちの出会いと別れの総決算であり、諸行無常の最先端である。
私はどこから来て、どこへ行こうとしているのか。

道元禅師の「正法眼蔵・現成公案」の冒頭は以下のような格調ある文章からなっている。

「諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。
万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。
しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり。

自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちいず。しかあれども諸仏なり、仏を証しもてゆく。
身心を拳して色を見取し、身心を拳して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみに陰をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくのあらず。一方を証するときは一方はくらし」


画像


人は誰もが後悔のない、充実した人生を望み、今を大事に生きていきたいと願っていることであろう。
一つの答がここにある。

仏道とはいのち荘厳の行とも言えよう。その荘厳とは何かを付け足し飾ることではなかろう。虚飾ではない。諸行無常の実相に徹する事である。いのちそのものが既に実相の光りを放っている。荘厳の光りを放っている。花も草も、凡も聖も、迷も悟も、過去現在未来も、すべていのちの光りと影の様子である。

そのようないのちありのままをありのままとして戴く。素なるものの荘厳さに徹すること。生を荘厳し、死を荘厳する。公案をして現成ならしめ、現成をして公案ならしめる。繋がりながらも初めなき初めがあり今に現前し、断絶しながらも終りなき終りのいのちが連なっている。そのような今を生きている。私は自己の関して殆ど知らされていないに等しい。そうであるがゆえの生きる意義なのであり、これをしも人生の一大事という。その因縁の中の生死去来、人生なのであるということに目覚めて生きる。仏道とはこれ以上でもこれ以下でもない。

画像





「盆の道」

日傘してひとりし生きる女坂

ことごとく死出の海原夏の蝶

巣立ちたる燕に広き美空あり

遺されてひとりかなかな聞くばかり

帰省して風吹く方へ歩み寄る

空蝉のいのちとまどふかろさかな

鬼やんま尻が遅れて旋回す

生き死にを手に取るやうに夕涼み

沖つより風の通へる盆の道

ひぐらしや石も眠れるゆふまぐれ

夏萩がうなづくほどの風に立つ

肉叢のまだ整はぬ昼寝覚





ランキング応援クリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
花は愛惜に散り 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる