再生への旅

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zoom RSS 初心の弁道・いつも本番、どれも本番

<<   作成日時 : 2013/07/05 03:36   >>

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抜きんでて風の高さや花擬宝珠 玉宗

夏も盛り。毎日暑い日が続いている。
弟子の法戦式も明日に迫った。今日は最終チェックであちこち駆けずり回ることになるだろう。天気もなんとか回復しそうである。師匠として弟子の修行に応える準備も、なんだかんだと楽しい時間ではあった。本番を滞りなく勤め上げる為に過ごした準備の日々が懐かしいくらいである。親として、師匠として、このような経験ができる縁、巡り合わせを思うのである。

ところで、いのちは常に本番であるというのが宗門の立ち位置であろうと思っている。
人生の一大事とは、生という本番をまっすぐ戴くことができなくて、どうして死という本番を逍遥として戴くことができるかと試されていることでもあろう。諸行無常の人生で「過程」とは竟にひとつの妄想になり得る危険性を孕んでいる。
確かにものごとには「始終」がある。「過程」がある。初心の弁道とは始めは始めとして本番、終は終として本番、過程は過程として本番という生き方を言うのだ。今ここに生れ、いまここに臨終し去る。そのような生死の戴き方。それは覚悟といったものではなくいのちの事実に随順する様子を言っている。いのちとはそのような今の事実を言うのであろう。私とはそのような今を生きている事実を言うのであろう。そのような目覚めの中でこそ、人生に無駄なものはない、あるのは愚痴だけだと言い放てるのではないか。

僧堂に安居して法戦式を勤められる機会というのも、そうそうあるものではない。弟子にとってこの一年数か月の日々は、上山前には想像すらできなかった新鮮な日々であっただろう。それは彼自身に構えるところがなかったからに違いない。いつもまっさらな自己に立ち帰る。それが仏道の初心であり、そのような初心の中の弁道の始終なのである。仏道は何かを付け足すことではない。常に今、ここという「初心」に発心し、修証し、転法輪し、涅槃するのである。自己ぎりのいのちに落着すること、それをしも成道とは言うのであり、宗門の宗門たる面目は、初心の弁道、それは成道の中の弁道を提示しているからなのである。

法戦式は一つの区切り、けじめである。初心の中の弁道は始まったばかりであることに変わりはない。弟子の道の於いて只管なる志、いつでもどこでも本番である弁道を祈るばかりである。

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「鳥の巣」

雨乞になくてはならぬ漢とか

近道の森に鳥の巣拾ひけり

てのひらに浮かばせてゐる早桃かな

麦藁帽すももを入れて戻りけり

まづ父のなき子へあげる杏かな

夜々月に濡れし重さや青葡萄

すぐりの実野良より帰る母の手に

木苺を採つてくれたる兄もなし

青柿の落ち放題や生家跡

青林檎拭くべき袖もなかりけり

もにいはぬ日や暮れなづむ月見草








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