再生への旅

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zoom RSS 今日の以心伝心・儀式とは?!

<<   作成日時 : 2013/07/07 04:26   >>

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花南瓜てのひらほどのあかるさよ 玉宗

首座法戦式も無事終わった。
生憎、今のところ写真をUP出来ないのだが、多くの檀信徒に参拝して頂いた。弟子も精一杯の奮闘ぶりが感じられて悪くわなかった。倅のあんな大きな声は未だかつて聞いたことがなかった。小さいころから大人しい子で、反抗期らしい時期もなかった。それが気掛かりで夫人とも心配していたのだが、僧堂生活を体験して身心ともに少しづつ逞しくなっているのが如実に感じられる。

法戦式という謂わば「儀式」「形式」ではあるが、「かたち」が「かたち」としてなるには、それを支え、埋めるべき「内実」が求められていよう。「形式ばかりを・・」と人は批判するが、私に言わせれば、中身のない「かたち」を批判するのと、「かたち」の伴わない「空虚さ」を批判するのとどっちもどっちの妄想である。二見に堕するというようなものであろう。

自己を空しくするという精進の本質からすれば、攻めるべき「かたち」との格闘の果てに「内実」が見えて、身につくといったことがものごとの実際ではなかろうか。内と外との鬩ぎ合い。業とはそういうものだ。自分とは何か?そのように問う事は正しい。自己がどれほどのものであるか、それは自己がどれほどの「かたち」であるかを知ることでもあろう。そこには「うちなるもの」が「実」としてうごめいているに違いない。

「仏道のかたち」とて例外ではない。坐禅が真実の坐禅となるには、身とこころを削る精進がそこにあるからだ。「かたち」はそうやって個に受け継がれていく。そのように諸行無常してゆく。手を拱いて手に入る「かたち」といったものはないと知るべきだ。「死というかたち」も又ひとつの学びとるべき「実」であるに違いない。

人生には様々な「かたち」がある。生きるとは「かたち」を学ぶことでもあると言えよう。私たちは諸行無常という「かたち」を学んでいる。「かたち」を学ぶとは「内実」を学んでいると肝に銘じるべきである。そしてその逆もまた然なりと。

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「跫音」

ひるがほの聞きしは誰が跫音ぞ

蟻の列キリコの街へ消えにけり

浴衣着てふつと哀しくなりにけり

晴れてなほ海荒れ茅花流しかな

子燕のゐなくなりたる夕庇

飯の汗母なきこの世さみしけれ

月見草風が疲れてをりにけり

グラジオラスあの世の母と逢ふつもり

妻や子と生き別れたる夕立かな

花南瓜てのひらほどのあかるさよ

母植ゑしポンポンダリア母が剪る

ふるさとの虹に別れて以来なり






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