再生への旅

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zoom RSS 若気の至り・曲がり真っ直ぐないのち

<<   作成日時 : 2013/07/08 05:03   >>

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暗きところへ小暑の客を招き入れ 玉宗

先日の法戦式祝宴会でのこと。
まあ、謂わば身うちの宴会ということもあり、忌憚のない挨拶を多く戴いたことである。忌憚がなさ過ぎて、主役である弟子をさておいて、師匠である私の恥部まで紹介されたのには恥ずかしいやら、懐かしいやら・・・。

例えば授業師である板橋禅師様には30年前に得度を受けて以来、拙ブログで何度もUPしているように、10指に足りないご迷惑をお掛けしているのであるが、その大乗寺僧堂時代に私が侵した無作法を未だに覚えておいでだったことには、感心するやら、その執念深さに呆れるやら・・・・・。同様な駄目だしは、兄弟子である今村監院老師からも客人たちに紹介されてしまい身の置き所が無くなりそうな始末。然しながら、同時に私の人生の全部を受け入れてくれて下さっていることに胸が熱くなったのも事実である。

世に若気の至りというが、振り返れば、わがことながら他人事のように懐かしいその曲がり真っ直ぐな道行。若さとは純粋にして不純なものではなかろうかと私などは思っている。それもこれも人生への無知からくる畏れや夢や無抵抗さの表れではある。若い頃は背伸びするくらいがちょうどいい。ちょっとばかり生意気なくらいがちょうどいい。いずれ人生の現実の壁や山河にぶち当たって自分の力量をいやが上にも知ることになる。知らなければならない。現実を受け入れる素直さ、従順さこそが、可能性の塊でもある「若さ」の本来の面目でもあろう。

肉体や感性は若さの特権ではあるが、特権が自らを蔑ろにするのも若さという可能性の孕む矛盾である。若さの「生々しさ」は眩しく、美しいが、ときに、痛ましく、グロテスクである。若さも又、諸行無常の現実を逃れられない。

それにしても綱渡りのようなわが人生。市堀玉宗という未熟な人間が、仏に叱られ、宥められ、透かされ、引っ張られて、なんとかひとしなみにお坊さんをしている。そんな諸行無常の、曲がり真っ直ぐないのちが、今、ここにある。

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「小暑」

暗きところへ小暑の客を招き入れ

小暑なる橋より岸を振り返る

夜や美しき小暑の雨に打たれをり

眼より蟻がうようよ溢るゝか

生涯を蟻の歩哨として死ぬる

ねぢ花へきれいな雨後の声とどく

ねぢ花のかゝる神慮を測りかね

月影にけぶれる烏瓜の花

合歓の花匂ひ立つかに通り雨

蚯蚓鳴く夜の校庭ひとり占め

鳴き交はし鷺渡りゆく宵の空




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