再生への旅

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<<   作成日時 : 2013/08/10 04:53   >>

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朝顔や家族といふも露の世の 玉宗

能登は八月盆である。

永福寺では、お墓掃除から始まって盆の用意も既に始まっている。昨日は義姉が磯の小石をバケツ三杯ほど採ってきた。毎年お墓に敷くのである。夫人は「まなご」と言っていた。「真砂」が訛ったのではなかろうか。
本堂の掃除。施餓鬼棚の設え。天幕張りまで済んだところである。

今日から弟子が盆の手伝いを名目に帰省する。13日からは棚経に廻る。それまでにまだ準備しなければならにことがいくつかある。盆花作りもそうである。裏山に生えている萱を刈り、溝萩を添えて供花とする。お墓は勿論、山内、観音堂、地蔵堂の全部の花立てにそれを供えるのである。その盆花供花作務を昨年から弟子とするようになった。

生きていくということは具体的なことである。お坊さんとしての暮らしにもそれなりの、慎ましく、言い伝えられ、実践されてきた「暮らしのかたち」といったものがある。それを一つづつ教え、伝えている時間というのも楽しく、そしてどこか切ない。やがて先に死にゆく親として、私はどれだけの「生きる知恵」「生きる力」を倅に遺してやることができるのだろうかと思わないではいられない。

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親にとって子の自立こそが孝行である。親とて子に代って生きることはできない。
然し、子に親孝行を求めるのも親のエゴだろう。人生の師匠というものは親だけではない。というより、親以外の方が圧倒的に人生を教えてくれるであろう。私一人の知恵など、たかが知れている。私にできることは、とるに足らない人間なりに精いっぱい生きている姿勢で寄り添うことだけだ。

子は親の後ろ姿をみて育つという。つまり、親は子に率先して生きる存在でなければならない。何を率先するか?人生への関わり方が試されている。子は親の些事から一大事までつぶさに見ているものだ。子も又、親に代ることができない歯痒さを抱いて生きているに違いない。それを思えば、親である私は親として自立しなければ子に孝行できないのである。

親子も又、諸行無常に生きる一期一会の存在者であることから逃れられない。子を授かったことで親は親として諸行無常に生きる力を得たのであるから、それは当に、子への恩返しと言うべきものである。そのような眼差しで子に接している自分に気付くようになった。

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「鷹の爪」

咲き出でてオクラは花の喇叭吹く

歳月へ目にもの見せて唐辛子

鷹の爪空張りつめてゆくばかり

唐辛子吊るしこの村出ぬつもり

八方にひろがる稲の花盛り

雲流れ尻地につけて秋茄子

月影や茗荷の花にさざなみす

実直な南瓜の重さ抱くほかなし

かげろふのあるかなきかが目にとまる

生き過ぎて蜻蛉追ふことためらひぬ

朝顔や家族といふも露の世の






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