再生への旅

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zoom RSS 法輪転ずれば食輪転ず

<<   作成日時 : 2013/08/16 04:54   >>

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寄する波引く波盆の過ぎにけり 玉宗

お盆の行事もほぼ終えた。

最終日には声を嗄らしてしまった。こんなことは初めて。倅が手伝ってくれて棚経に廻る軒数は減ったというのにどうしたことか。思い当たることは張り切り過ぎてしまった結果であろう。朝6時から夕方6時まで昼食を挟んで出ずっぱりである。お経を上げるのは勿論、檀信徒さんたちとの挨拶や談話を繰り返す。一軒一軒を新鮮な気持ちで対応していかなければならない。一期一会と心得て爽やかに、風のように、風鈴のように反応したいといつも思っている。棚経もまた仏道の実践が試されていると思っている。手を抜くことは許されない。

それにしても今年は暑かった。御伺いするお宅が全て冷房が利いている訳ではない。半分は留守の家でお経をあげて立ち去るのである。室内でお経に精を出していると結構体温が上がるものである。熱中症が室内でも起こりうることを聞いていたので、いささか用心して臨んでいたほど。

クーラーが普及した現代、団扇で背中を仰いでくれる人も稀になった。せいぜい、扇風機の位置を変えて下さるくらいである。ローソクの灯が消えず、尚且つお坊さんに風が当たる扇風機の角度といったものがあるのだ。
また、半数ほどの家で冷茶を出して下さる。それを殆ど飲み干しているがトイレに行くこともない。発汗して水分が出てしまうのだろう。

永福寺の場合、棚経に廻るのは殆ど他門徒さんである。百年前に輪島に移ってきて以来の縁であるが、所謂、檀家さんと違って寺檀関係といった縛りがない。お寺としては気楽ではあるが、常什を支える保障はないに等しい。住職して間もなく気付いたことではあるが、お寺の護持の基本は「托鉢」と本質的になんら変わらないということだった。

寒行托鉢は勿論、年に三回ある恒期法要も、地蔵様の縁日も、日々の行事も、そして棚経も又、「托鉢」という喜捨行なのである。それは義務ではない。権利でもない。然し、信仰という条件下では紛うかたなく自己を本位とする「当為」なのであると思っている。そのような信者さんを育てるのも住職である私の仏道力如何である。

先師がよく私に諭していた言葉がある。

「法輪転ずれば食輪転ず」

こむずかし話しではない。お坊さんとて霞を喰って生きてはいけない。基本的に、そして本来的に檀信徒という支えがなくては叶わないしろものである。
どの世界でもそうであろうが、お寺の世界も又、お坊さんとしてあるべきことを淡々としでかしてさえいれば、信者との御縁もいつか自然に熟していくものである。誤魔化しの利かない世界である故の緊張感と張り合い。それが曲がりなりにも住職を続けて来られた要因の一つであることは間違いない。これは四半世紀の住職体験からの実感である。

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「終戦日」

海へ出る雲恐ろしや魂送り

ゑのこ草尻に突刺し茄子の馬

龍淵に潜む枕の凹みかな

にんげんは不真面目と思ふ糸瓜かな

消え入りさうな妻の放屁や天の川

梨喰うて怒涛の如く満足す

放蕩の限りのごとく踊るなり

白桃の傷みやすさよ泣き寝入る

月の出のあつけらかんと終戦日

草影や戦負けたる日の月の

幾柱の戦終へたる日なりけり

かろきものくべて送り火育てけり




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