再生への旅

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zoom RSS 夏花摘み

<<   作成日時 : 2013/08/02 05:00   >>

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たまゆらのゑにしに夏花摘むことを 玉宗

明日の施食会を控えて夫人が檀家さんから供花を戴いて来た。
いつものように抱えきれないほどの夏花である。永福寺も興禅寺も供花は境内や檀家さんから戴いた生花を活けている。施食会は特に先祖供養が懇ろなために、「食」と共に「供花」もふんだんに用意したい。

命のつながりと断絶。諸行無常の流れの中で、過ぎ去ったものへの様々な思いがある。供養とは何か?

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短く、限りある花のいのちを死者へ供えるとは如何にも遺された人間の美しき心映えであると思う。確かに人は永遠を願っている風ではあるが、紛れもなく一度きりの人生、いやがうえにも限りあるいのちであることを知っている。死すべき宿命であることを知っているからこその「真心」である。後戻りのできない生であることを知っているからこその「かたち」である。「思い」は尊い。そして「虚しい」ものである。だからこその「かたち」である。生きている私とは「生」がそうであるように「死」についても何にもしらないに等しい。只、空なることを如実に知っているだけだ。

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虚しいといえば全てが虚しかろう。萎れることが分かっている花を供えるとを笑うことも出来るのである。ありもしない有難さに手を合わせることを嘲笑する事も出来るのである。然し、そのように言う人は、花の命を供え、手を合わせている当人がどのような世界を生きているのか知りもしないであろう。虚しいままに、何の不足もない、満たされた、充実した、今の事実があるのである。虚しさが虚しさのままに命を救っているのである。それを成仏とは言いたい。西方浄土などという、途方もない、遠い話をしていおるのではない。いつも、只、今、ここの、いのちの話である。

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永遠のいのち?そのようなものを人はほんとに願っているのだろうか。
わたしは一度きりのわが人生を燃焼し尽くす。それが叶えられることを願い、祈ることしかできない。それ以外にどうやって「永遠」に関わってよいのか分からないのである私は。



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「夏花摘み」

たまゆらのゑにしに夏花摘むことを

かんばせを照らし合はせて摘む夏花

命日の母へ夏花をしたゝらす

選ばれしことの恍惚ある糸瓜

畳の目ていねいにある昼寝覚

焼き茄子喰らうてけふも頑張れと

赤富士や犬目峠にうち仰ぎ

白山をそびらに水を打つ暮らし

ほどほどに曲がる胡瓜でよからうに

掃き寄せし塵の中より落し文

二人ゐてひとりひとりや夜の秋

冷麦の赤き一筋誰が思ひ

かなかなや母が肌の匂ひ立つ

グラジオラスほとけ来たまふ宵の風



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