再生への旅

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zoom RSS 坐禅という生き方

<<   作成日時 : 2013/08/22 05:07   >>

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ポケツトの中は暗黒小鳥来る 玉宗


坐禅という、言ってみれば私限りの「行」の本質について確認したい。

傍目にも、見た目通りにも、何もしないで、黙ってジッと坐っていることの意義とは何か?
先ず、ここに人間らしさに右往左往し、四苦八苦し、迷っている存在があるという事実が問題なのである。坐禅はそのような世界から脱出する一つの手段である。
只管打坐は私という人間の宗教的自己実現であり、宗教的自己表現である。宗教的ということは私が私の命に親しみ、ぶれないでいることを言う。

坐禅の真っ只中は一切の期待や作為に関わらないでいる。主義主張も、理想も絶望も、公私も、自他も、目的意識も、手段という職人根性も、煩悩という人間らしさも、すべて棚上げして、いのちあるがままに落ち着き、投げ出している。

このような内実が坐禅の端的であり、今の正体であり、命の事実以外のなにものでもない。分別以前。永遠とはこのような「而今」のことである、という信仰に生きている。


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悠長と言えば悠長かもしれない。

今、このときにも世界には争いや飢餓や不幸や災害が絶えず、多くの人が日々の生活に苦労しているというのに、私は自分一人の身心の落着に感けている。
かけがえのない命を賭けて坐禅という非生産的な、ある意味なんにもならないことに命を賭ける人生。欲望や人間らしさを越えた領域だけが好くも悪しくも私を黙らせる。それは私が私でいるために神様が与えた一つの機会である。

「何のために坐っているのか?」と問われれば究極のところそのような自己のためではある。つまり、結果としてこのような「かたち」でしか私は社会へアプローチ出来なかったということである。


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「処暑の妻」

生きてきた二人に虫の鳴く夜かな

重ね置く夫婦茶碗や秋しぐれ

処暑の妻小さき旅に出たがりぬ

ポケツトの中は暗黒小鳥来る

石女の身に初風の廻り来る

手遊びのゑのころ草と岬まで

コスモスに解ける風のありにけり

咲き出でて乙女さびたる灸花

湯浴みせし妻へせせらぐ天の川

秋の暮妻に捨てられたるごとし






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