再生への旅

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<<   作成日時 : 2013/08/27 05:26   >>

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生まれて以来途方に暮れていぼむしり 玉宗


『正法眼蔵・道心』は以下のような一節から始まる。

「仏道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし。道心のありやう、しる人まれなり。あきらかにしれらん人にとふべし。
よの人は道心ありといへども、まことには道心なき人あり。まことに道心ありて、人にしられざる人あり。かくのごとく、あり、なし、しりがたし。おほかたおろかにあしき人のことばを信ぜず、きかざるなり。またわがこころをさきとせざれ。ほとけのとかせたまひたるのりをさきとすべし。よくよく道心あるべきようを、よる、ひる、つねにこころにかけて、このよにいかでかまことの菩提あらましとねがひいのるべし。
よのすゑには、まことある道心者おほかたなし。しかあれどもしばらく心を無常にかけて、よのはかなく、人のいのちのあやうきことをわすれざるべし。われはよのはかなきことをおもふとしらざるべし。あひかまえて法をおもくして、わが身わがいのちをかろくすべし。法のためには身もいのちもをしまざるべし。云々」



様々な道があるが、道そのものに教えられ、育てられる「心」でもあろう。あきらめず歩き続けることで育まれる「道の心」といったものがある。それが本物であるかどうかは、私が何をし、何をしなかったかによって評価されるであろう。人の心模様を云々するのではなく、且つ又、人の毀誉褒貶に左右されず、私自身の「道心」の真偽を知り、「道心」の通塞を弁えることができるのは私自身でしかない。

「道心」
それはどこにあるか。おそらく坐禅の中にしか見出されないであろう。
仏道に於いては「仏法」のために身と心を擲つが本義である。「坐禅」という「威儀」そのままの「仏法」があり、「坐禅」という「本証」から離れられない「妙修」がある。

その実際に於いて、「自我」を先立ててはいないか。「現実」という名のもとに「道心」を変質させてはいないか。「現実」を隠れ蓑としていないか。「道心」を売り物にしてはいないか。「発心」をどこかに置き去りにしてはいないか。
自己の「道心」を点検し、自己の「無道心」を省み、「道心」を育てる「自律・他律」の目を忘れてはならない。「道心」を育て、「道心」に生きる無欲なこころざしと威儀がなければならない。

なぜなら、私にとって仏弟子であるということは「再生」の日暮らしそのものなのであり、私にとってこの世とは身を捨てなければ浮かばれない瀬そのものなのであるから。


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「地蔵盆」

妹が形見のやうに地蔵盆

知らぬ子が鉦撞いてをり地蔵盆

地蔵盆村に一つの灯を点し

地蔵盆帰れば母の明るさよ

今頃誰に抱かれてをるや稲光

月に響く後架の裏田の落し水

水落し父と交せる夜の酒

吾もまた鬼の捨子や月に寝ね

還俗のそのあと知らず草の露

つくつく法師わが身が洞と消ゆるまで

老い兆す妻が二の腕秋暑し

毀誉褒貶なかば遮り秋簾

わらんべの空に夢あり秋茜

虫の夜ものを小さくたゝみをり





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