再生への旅

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zoom RSS 法を嗣ぐ・面授の世界

<<   作成日時 : 2013/08/09 04:50   >>

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 奥能登のバスに乗り合ふ解夏の僧 玉宗

先日、法戦式を終えた弟子であるが、時を俟って「嗣法」する予定である。まあ、謂わば「免許皆伝」であるが、どの世界でもそうであるように、仏道も又、師匠という「覿面」「目の当たり」の越えるべくして、敬すべき具体的存在が必要不可欠であることは言うまでもない。本を読んで悟ったとか、師匠なくして仏法を会得したとか、ひとりで済ますことが出来たとか、元々そのような領域の話しではない。歴史上のお釈迦さまから始まって、今に至るまで、一対一のいのちの感応が前提である。

仏法は自他を通貫して普遍であるが、その普遍はまた一人一人に示現、体現されている。師匠は弟子を得て嗣法の威儀を施し、弟子は師匠を得て嗣法の面目を戴く。師匠も弟子の嗣法によって自己の面目を更新するのである。いのちの在り様にあたらしいものを付け加えるのではない。「面授」という「感応道交」の世界に目覚めるのである。元来汚れていない自己のいのちの端的を授け、戴く。いのちといのちの交感。

仏道は独善の世界ではない。偶像を廃した自己確立の道程である。妄想に堕せず、真に自己を確立したものこそが仏法を引き継ぎ、引受けるに値するだろう。そのためにも、弟子は師匠という鏡の証明を経なければならない。ひとりよがり、孤立し、自足し、何ものも映さない悟りといったものは有り得ない。

「嗣法・面授」それは厳かで、侵し難く、そして潤いのある世界なのである。


面授
【定義】
@師と弟子がまのあたりに相い対して、親しく仏法を授受すること。天台宗や真言密教などで用いる概念であり、禅籍ではそれほど多い表現ではない(圭峰宗密『禅源諸詮集都序』「巻下之二」には、「親しく釈迦に稟け、代代相承して一一面授して、三十七世、吾が師に至る」と見える)。なお、日本曹洞宗の道元禅師は、このあり方を非常に尊重した。「つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉より」


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「かなかな」

ひぐらしや暗き記憶の獄舎より

かなかなやもの喰うことの疎ましき

稻雀稲穂の波に沈みけり

竈馬朝に深入りしたらしく

靴底の右ばかり減る木槿かな

嘗て父の洗ひし墓も古りにけり

蜻蛉追ふ一人ひとりの深空かな

浦波の真砂掬へる盆用意

奥能登のバスに乗り合ふ解夏の僧

生身魂月日のごとく遠くあり







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