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zoom RSS 生れたときから「終活」は始まっている?!

<<   作成日時 : 2013/09/11 05:21   >>

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稲雀力いつぱい腹いつぱい 玉宗


「終活」という言葉がある。就活、婚活、離活と共に、東日本大震災を機に「終活」もまた注目されているようだ。
「人生の終わりのための活動」の略であり、人間が人生の最期を迎えるにあたってするべきことを総括したことを意味する言葉らしい。例えば、生前のうちに自身のための葬儀や墓などの準備や、残された者が自身の財産の相続を円滑に進められるための計画を立てておくことだという。

所謂「孤独死」の問題を同じように論じるつもりはないが、諸行無常、何時来るともしれない親族や社会との別離。そのための心構え、身構え、物構え。そこには自己なき後の家族への思い遣りがあるのだろう。或いは身寄りのない一人暮らしの「人生の清算手続き」といったところか。死を迎えるの当たっての最後の礼儀と言ったら語弊があるだろうか。

葬儀に関しては名のある俳優が戒名を付けず、自分で読んだ御経を流し、お坊さんは要らないと言い切っていたのがテレビで放映されていたことがある。その心理の根底には葬儀にお金を掛けたくないという生活事情とお坊さんを信頼できないという個人的信条にリンクしているのが感じられた。まあ、いろいろ事情があるのだろう。

どのような臨終模様を予定しようが、それもこれも本人の生きざまの反映である。気になるのは、死後の後始末や供養の在り方を死んでいくものだけの希望で左右できるものだろうか。又、遺族たちは遺族たちで死者を送る形への言い分はないのだろうかといらぬ心配をする。最後の幕引きが社会儀礼だとしても、或いは宗教儀礼だとしても亡くなって行く当人だけで気づきあげた人生でもあるまい。「死」という今生の終焉でさえ「いのち共にある」者の風景であるには違いないのだ。経済的事情を考慮するなと言っているのではない。 死や死後さえ自分の思い通りになると勘違いしているのではないかと懸念しているのだ。

「さよならだけの人生」で私は何を宝物として生きてきたのか、そして死んでゆくのか。
親が子供へ遺すものにもいろいろある。遺族への思い遣りの中に「経済的遺産」もあって当然であろうが、それと併せて「切れながらも繋がっているいのちのゆたかさ」といった「目に見えないが確かにあるもの」言ってみれば「諸行無常の豊かさへの目覚め」を遺すというのも「終活」の大事な項目として考慮したいものである。

そういうことが得心できるのであれば、人生いろいろ、死に様いろいろ、終活もいろいろであるが、思えばそのような「いのちの繋がりを生きる歩み」といった「終活」は生まれたときから始まっているとも言えなくはない。

(以前の記事に加筆し再掲したものです。市堀)


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「稲雀」

必死さがいささか足りず稲雀

昨日より明日は遠し稲雀

稲雀力いつぱい腹いつぱい

小鳥来る空に遠のく兆しあり

足跡の刈田に残る水溜り

赤とんぼ風に戯れ水に戯れ

愛されていよいよ不安葡萄食む

叱られて稲架より下りる夕べかな

じやがいもを馬の糞ほど喰へといふ

きりぎりす安達太良山の闇背負ひ

風に色なき去来の墓に詣でけり

縄文のおゐどたくまし稲を刈る

白鳥の来るてふ湖の波がしら

憚りつゝ典座に秋刀魚焼く日かな









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