再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS お坊さん、いらっしゃ〜い!行持とは何か?

<<   作成日時 : 2013/09/13 02:51   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


新到の面変はりして萩の風 玉宗

今日は大本山總持寺祖院御征忌法要二日目。
全国から延べ二百人以上のお坊さんが参集しての行持である。まあ、永平寺や總持寺と比較すれば少ない数であろうが、私のような田舎坊さんには、圧倒されるに十分な数である。どこにこんな沢山のお坊さんが隠れていたのだろうと怪訝な思いになったりする。普段から余りお坊さんつきあいの少ない自分にはたじろぐほどの存在感である。

ところで、存在の尊厳さといったものは、その広さや重さや多さなどの感触と深く関わっているようにも見える。教会やお寺などの伽藍が無駄に広かったり大きかったりするのも故なきことではない。それはそうではあるが、私一人のいのちの世界とはたかが知れている。というより、他と比較し切れないという意味では計りしれないといって差支えない領域であろう。

畳み一畳の広さの坐禅の世界。いのち一つの世界。どんなに多くの群衆や広い空間や情報の中にいようとも、畢竟私一人の世界の話しである。他を蔑ろにしろと言うのではない。徹底自己の世界を見極めることができないでどうして他の世界を受け入れることができるのか。或いは受け入れなければならんのか、私には疑問なのである。

自己とは無限や永遠からすれば「無きに等しい存在」であるが、それは「無い」のではない。かと言って「ある」とごり押しするような代物でもない。要するに「私」に拘ることの愚かさ、無意味さをこそが問題なのである。

本来なんともないいのちに「拘る」「執着する」それこそ妄想とは言うのである。人がいようがいまいが、多かろうが少なかろうが、伽藍が小さかろうが大きかろうが、片書きがあろうが無かろうが、檀家が多かろうが少なかろうが、肉山だろうが骨山だろうが、悪だろうが善だろうが、諸行無常の今しか生きられないことに変わりはなかろう。

行持とはそういう意味で「私事」ではない。恣意の余地のない「公なるもの」である。平等なるものである。そのような行持に行持せられるとは、行持に救われているわが身心であるということ。生は生の行持。死は死の行持。今は今の行持になり切る。それをしも仏道とはいうのである。

画像



画像



画像



画像


「秋燕」

秋燕山顛いよゝ遙かなる

振り返る蛇もあるらむ惑ひつゝ

蟋蟀の妙に艶ある後ろ脚

林檎売り空に恋せし顔をして

かりがねの来るころといふ窓辺かな

龍淵に潜み賽銭落つる音

籾焼きの煙り影なす月夜かな

コスモスに難ありとせば影のなき

売れぬ詩を反古にして焼く秋刀魚かな

山暮れて空暮れまどふ稲架木かな



ランキング応援クリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
お坊さん、いらっしゃ〜い!行持とは何か? 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる