再生への旅

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zoom RSS 人間らしさについての一考察

<<   作成日時 : 2013/09/17 05:38   >>

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  くわりんの実とつてつけたる枝の先 玉宗

人間らしさとは何だろう、というような設問はよく耳にするし、自問することが多い。それも大事なことであるが、同時に、人間らしく生きることが疑いもなく当たり前なのであろうかと思いを致すことも、より一層に人生にとって不可欠な自問ではないだろうかと思っている。
お釈迦様の実践された中道の生き方は、人間らしいだろうか、らしくないだろうか?私の結論を言えば、少なくとも釈尊の生涯は「らしさ」に振り回される人間の危うさ、愚かさに警鐘を鳴らした生涯であったのだと思う。

「考える作業」は人間らしさの最たるものであろう。そんな人間の特権が齎す文化文明がある。その範囲は無闇に自由自在で、そして危うい。その特権が構築したバベルの塔からの展望は一見無闇に明るく広く賑やかである。永遠なるものを志向する人間らしさの世界。それはときに殺風景であり、寂しい。最果てのような冷やかさえ感じることがある。それはまぎれもなく、神様の真似をして行き着いた果ての「人間らしさ」の生み出した風景である。

他の動物や植物や無機物にはない、人間をして人間たらしめている様子、癖、行動様式のようなものが人間にはある。その余りにも多様な人間らしさに神様さえ手を焼いているのではないかと思われるほどだ。卑近な日常生活の中の知情意に纏わる人間らしさ。集団や国家、主義・主張・正義などに及ぼす人間らしさ。大なり小なり、陰に陽に、宿命のごとき「らしさ」の現実がある。ときに癒され、ときに傷つく人間らしさの世界。

人間らしさ、それは猫が猫らしくあるように、糸瓜が糸瓜らしくあるように、他にとってかわることが不可能なように見える。願うことなら、それらが人間を更なる傲慢な自然児にしないようにと祈るばかりである。


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「野分」

小鳥来て珠のごときを啄める

谷の名は風の名鳥の渡るらし

咲いても咲いても母とはちがふ野菊かな

烙印を捺されて今日もいぼむしり

投函のことりと秋の音立つる

野分より戻りしこころさゝ濁り

星ひとつ吹き落したる野分かな

椿の実艶ます平家遠流の地

天地の間を雲ゆく案山子かな

親離れ子離れ秋の深みかも

蟋蟀やいのちの洞を響かせて

くわりんの実月に尻向け太りけり









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