再生への旅

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zoom RSS 無宗教という束縛

<<   作成日時 : 2013/09/22 05:10   >>

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芋の葉も赤子包めるほどとなり 玉宗


「宗教」とは「人生の拠り所の根本」であるとして話を進める。

日本には「無宗教」と自認する人が多いようであるが正確なところいったいどのくらいの割合なのであろう。
宗派や教義や教団などに拘らない、或いは無視した「日本宗」とも言える日本独特の、神仏混合、神仏融合、八百万的自然崇拝がある。セクト化や教団化以前の、人生や自然への曖昧にして、混沌なる、名のつく以前の畏怖のようなものが人間にはあるだろう。それをしも「無宗教」と呼ぶことに私などは躊躇するものがある。
所謂「無宗教」と公言して憚らない日本人にしたところで「宗教心」のない人などいない筈である。根っからの「無宗教人」がいるとしたら、それは殆ど人間ではないと言ってよかろう。

ここで問題にしたい「無宗教人」とは、世間的価値観の中でしか生きていないような人間のことである。現実にはそのような人を見ることが少なくない。というより私自身の中に、世間的物差しで全てを計ろうとする狭い根性が巣食っている。貧富などの二見の価値判断から離れられない、欲望の奴隷の如き私がいる。欲望に束縛されている私がいる。それはどう考えても「仏道」ではない。「出世間」ではない。

「宗教」に束縛されないで自由に生きたいといったようなことは竟に妄想である。欲望に束縛されること、それを「無宗教」とは言うのである。すくなくとも私にとってはそういうことである。曲がりなりにも、お坊さんであることで人並な人間でいられるという私の認識は、徒や僻み根性や厭味から出た言葉ではない。「無宗教」という「自由」は私にとって「地獄」や「監獄」に等しいものである。「仏道」という足かせ、手かせ、方向性、生きる姿勢があることで私は自在でいられる。一体の只中の一部であるが故の自在さ。それをしも「束縛・不自由」と決めてかかるのであれば、ついに人間が安心して生きる場所はなくなるであろう。軽々に「私は無宗教です」と言わないがよろしい所以である。それは神仏と共に生きることは勿論、人として生きることを否定しているに等しいのではなかろうか。

現代人は自然を畏れているようで、その実際は自然を喰いものにし、弄りものにしているのが現実ではないのか。「無宗教」を憚らない人間の所業に見えてしようがない。

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「稲架日和」

龍胆の花見て厭な汗をかく

恋するに願つてもなき稲架日和

かまつかの羽ばたくさまに紅なせる

秋海棠乙女さびたる花の色

倒れたるコスモス花を擡げけり

鵙の贄夕日の中に煮え滾る

甘藷掘れば空が西へと傾きぬ

人と会はぬ眼はうつろ紫蘇は実に

穭田に仰ぐ夕星父なくて

秋茄子や空に翳なすものもなし

鶏頭の勝鬨上がる仄暗さ



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