再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 迷われないいのち

<<   作成日時 : 2013/09/27 04:55   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


夕餉まで少し間のあり韮の花 玉宗

人生には様々な岐路がある。生きるとは常になにがしかの選択の連続であるとも言えよう。生老病死の人生の折々、人は苦悩することも多いのであるが、それらも又一つの岐路であるに違いない。

井上義衍老師のお話に次のようなものがある。

<迷われない>

「どうしようか」「こうしようか」と悩んでいる、と。それは通常迷っている、悩んでいることだと思っている。そうじゃない。少しも迷っていない。そういうことを知ってもらいたい。
「どうしようか」という時、「どうしようか」ということがあるだけ。「こうしようか」という時、「こうしようか」ということがあるだけです。 いろいろ、その先のことを考える。迷っているんじゃなくて、考えの中にいるだけです。考えの中で生活しているだけです。迷っているのではない。

これからやることがあるから考えるのであって、やらないんだったら考える要はない。「石橋を叩く」という話がある。あれは渡るために叩くんです。渡らないのなら叩く要はない。
今の自分の在りようです。考えとしての動き、その動きに教えられればよい。動きとしての事実に教わればよい。その動きに対して考えが動き、考え方で取り扱うのが人の常。 「痛い」ということ、「困ったな」ということがあっても、それに迷うということはない。 <平成24年 龍泉寺カレンダーより->


この中の眼目は「これからやることがあるから考えるのであって、やらないんだったら考える要はない。「石橋を叩く」という話がある。あれは渡るために叩くんです。渡らないのなら叩く要はない。 」の一節であろう。

よくも悪しくも、人は「事」に当たる前に、いろいろ考える癖がある。考えることが「悪」なのではない。いのちにとって考える事は万能ではないと言っているのである。考えてばかりいて、或いは考え過ぎて「渡る気があるのかないのか・生きる気があるのかないのか」、それこそが問題なのである。というより、生きているとは石橋を叩きながら渡っている今の事実のことである。その事実にいのちは教えられている。学んでいる。いのちは一度だって迷ったこともないし、迷うこともない。尽未来際、生のときは生、老のときは老、病のときは病、死のときは死であるばかり。どっちへどうころんでもなんともない石橋の風光、迷われないいのちの様子がある。それを「信の世界」とはいうのである。

画像




「さやけさ」

芋虫のいのち盲ひて蠢けり

洛北や色なき風の石仏

能登棲みも三十路となりぬ雁渡し

衣被母は千年あやまたず

コスモスを見てゐて肩の荷が下りぬ

さやけさに死ぬことさへも忘れゐし

どの家も修羅のありけり鉦叩

鰯喰ふ昭和の色の卓袱台に

父といふ遙かな不在鳥渡る

通草もぐ深空に腕を差し入れて







ランキング応援クリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
迷われないいのち 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる