再生への旅

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zoom RSS 往きて還るこころ

<<   作成日時 : 2013/09/30 18:43   >>

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随分と生きてきたよな芒かな 玉宗


 「往きて還る」

法然上人の御遺訓「一枚起請文」の中に次のような一節がある。

「〜ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申してうたがいなく、往生するぞと思い取りて申す外には別に仔細候わず。〜念仏を信ぜん人はたとい一代の法を学すとも一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。云々」

また、嵯峨野の落柿舎に去来が作ったとされる「落柿舎制札」というものが庵の入口に掲げられている。その中の一条に曰く「一、我家の俳諧に遊ぶべし、世の理屈を謂ふべからず」前者は一向念仏衆への、後者は俳諧の席に連なる者たちへの心得が標されている。

仏のいのちに遊化し、俳諧のまことに遊ぶ。「我家の俳諧に遊ぶ」とは「わが家の浄土に遊ぶ」と言い換えてもいいだろう。芭蕉も過ごしたであろう俳諧の浄土。『嵯峨日記』には落柿舎で連衆と共に過ごした様子がいきいきと描かれている。

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俳諧の席には商人、武士、農民、そして僧侶もいただろう。しかし一旦席を同じくすればそこには「俳諧のまこと」をもって臨むことだけが求められていた。それは現代まで続く俳人という異形衆が引き継いできた魂の器である。開放された時間であり空間。

己を無にした詩人の魂というものがこの国にはある。
古来の優れた俳人、日本特質の詩人たちが遺した作品とは、最短定型の器にそのような「無の魂」を込めたものの痕跡であるとは言えないだろうか。写生であろうが、象徴であろうが、造形であろうが、虚であろうが実であろうが、僧であろうが悪人であろうが、「表現」とは畢竟自己に固執することではなく、自己を無にして世界を受け入れることではないか。

或いは自己を世界へ開放することであり、それは己を無にしなければできない「離れ業」である。つまりそれが俳人に名を借りた「自己の存在証明」であろうし、「俳諧のまこと」なのであろうと思う。一句を成すに甘えてはならない、凭れてはならない、「智者のふるまい」をしてはならない。自己に徹し自己を離れる「往きて還る」俳諧のこころざしだけが求められている。

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表現とは、型に束縛されることではなかろう。詩人とは言葉以前以後の言うに言われぬ世界を表現するもののことである。俳人にもまたそのような世界を提示する感性と技量が求められている。型に徹し型を離れ型を活かす。

ありのままの世界には、あっけらかんとしたあかるさ、ひろやかさ、こだわりのなさ、のびやかさ、そして厳粛さ、屹立さというようなものが感じられる。自己を無にした水面に映る世界を認識し、感じ、言葉をもって映しとる。表現する。そのために自己の感性を削る。生きるとは何がしかの力を尽くすことに他ならず、詩人は言葉を尽くさなければならない。

蓋し、世に「自己」という偶像が最も始末に悪い。僧が特異なのではない。詩人が神に近いのでもない。俳人が上等なのでもない。ともにただこれ「にんげん」なるもののみだ。

「往きて還る」世界との交感。それが表現のすべてであり、それだけが表現者の生きる本筋ではなかろうか。



<以前の記事「往きて還る俳諧のこころ」に若干の修正を加えて再掲したものです。>




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