再生への旅

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<<   作成日時 : 2013/09/03 04:47   >>

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萩に風そこを退いてと云はむばかり 玉宗

「等閑・とうかん」

一般的には「なおざり」と読むのだろうし、 いいかげん、本気でない、おろそか、といった意味合いで受けとられ使用されているのだろう。
ところで、この言葉は良寛様の詩に出て来る言葉として宗門のお坊さんの間ではよく知られている。

生涯懶立身 生涯身を立つるに懶く 
騰騰任天真 騰騰として天真に任す 
嚢中三升米 嚢中三升の米 
炉辺一束薪 炉辺一束の薪 
誰問迷悟跡 誰か問はん迷悟の跡
何知名利塵 何ぞ知らん名利の塵
夜雨草庵裡 夜雨 草庵の裡
雙脚等間伸 雙脚等間に伸ばす

最後の「等間」の「間」は「閑」とか「閨vとも表記し、閨i門構えに月)は、間と一緒。(間は閧フ俗字)である。いずれも同じ、のどか、ひま、落ち着いている、しずかな、といった意味である。良寛さまの詩にはよくこの「閑」の字が出てくる。余程意を得たことばなのであろう。上の詩には「懶く・ものうく」という言葉もみられる。一体何に「懶く」、何に「閑」なのであるか。

「いい加減に生きることが仏道とは!?」と憤慨され、呆れる方も居られるかもしれないが、私に言わせれば、「執着の世界に生きて、よくも厭きもせず、いい加減にしてほしい」と言いたくなる筋合いの意義ある言葉なのである。良寛さまの詩からも察せられるように、この言葉は決していい加減な生き方を奨励している様なものではない。我々にとっては仏道の要諦であるといって差支えない代物である。

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他人事ではない、吾こととして言うのであるが、先ず、ここに執着に輪廻して飽かず、業苦に迷っている人間のいることが問題なのである。今ここにいのち足りている事実に落ち着けず右往左往、有為転変し満足を探し求める。それをしも破戒とは言うのである。

人の欲望は様々に姿かたちを変え、時とところを選ばず立ち現れる。思想とか名誉とか毀誉褒貶に左右され現実もある。例えば善悪にしても、本来いのちは悪とも善とも染まらないニュートラルな、可能性としての存在そのものである。

定めがたき善悪、頼りにならない煩悩という「いい加減な世界」に「間」を置く。それしも「欲望に懶き」人間の寄って立つ根拠である。人と関わるなと言うのではない。欲望は一人の世界にもある問題である。
欲望とは暴走しがちである。宿命として殺生しなけれな生きて行けないいのちを戴き生きている人間ではある。然し殺生の為の殺生、理屈や欲望が先行した殺生の世界に訣別し、業苦に渡らない。欲望に歯止めを掛ける事は出来るだろう。それが良寛様の生きた「等閑」の世界ではなかったか。


言葉を変え視点を変えて言えば、そのような「欲望との間の取り方」。それは人それぞれの様子があるだろう。良寛様は良寛樣なりの欲望との間の取り方をなさったのである。それが仏弟子としての良寛様の面目であり、報恩であり、一大事であり、社会への関わり方だった。それは図らずも宗門人の「一つの典型」と言っていいものだ。私はそう思っている。


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「萩」

萩の雨惚れし弱みに待たされて

白萩の紅に遅れしうねりかな

雨続く川の流れや乱れ萩

蜂がきて零してゆきぬ萩の露

初萩のまだ色もたぬ枝の先

萩の戸の散るにまかせてしづけさよ

ことゝひの袖を濡らせし萩の露

庭萩の花にそぼふる忌の小雨

何の蝶か萩の花より小さきが

海底のしづけさひたと萩の月

月詠の萩の主でありにけり

枝垂るゝにまかせしづもる萩の花

甘からん逢瀬が泪萩の露


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