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zoom RSS 今日の詭弁「どうでもいい、でも、どうでもよくない」

<<   作成日時 : 2013/10/10 04:13   >>

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腸を手に取るやうに秋の暮 玉宗

夫人によると私の口癖が幾つかあるそうで、「何様だ!」は以前紹介したので、今回は誤解されるのを承知の上で「どうでもいいんじゃない」についての考察を強硬突破したい。

例えば、夫人がこんな質問をしたりする。

「坐禅は結跏趺坐じゃないとだめなんでしょ?」
「どうでもいいんじゃない」

「お坊さんはやっぱり頭を剃っていないといけないわよね」
「どうでもいいんじゃない」

「お経の意味が解んない」
「どうでもいいんじゃない」

「禅師様にお会いするのに作務衣じゃ失礼よね?」
「どうでもいいんじゃない」

というような生返事なのであるが、実は「どうでもいい、けど、どうでもよくない」というのが正確な、深い〜い言葉なのである。只、それを夫人に説明するのが面倒くさいのである。それこそ「どうでもよくても、どうでもよくなくても、大差はない」と自己裁決しては事なしに済ましていると思えなくもない・・・。

「どうでもいい」などと言うと、仏弟子にあるまじき物言いであることは承知しているのであるが、実は問いかけてくる相手の偏りに辟易しているのである。つまり「仏法」というものが、何かしら垣根の向こうの高みにある、あり難いものとして捉えたがる癖がありはしないか。「仏法」でさえ真っ直ぐに見ることが出来ないのに、「世法」や「そのもの」を真っ直ぐに見、生きることなど出来るものか、という何故か錯綜した、そして偉そうな思いが私にはある。

私にしてみれば「どうでもいいべ」は夫人への方便なのである。
余ることなく欠けることなく、唯我独尊の命を戴いて生きているのだという事実。それが仏法であり、それ以上でも以下でもない。世間でよく使われる「嘘も方便」も、仏法では少し様子が違ってくる。「方便」とは「近道」と捉えてもいい。近道は、余所見をしなければ、そのものへの最短距離である。というより、余所見が出来ないのが「近道」であり「方便」であろう。「嘘も方便」とは正確には「嘘も方便、真も方便」と言うべきである。成仏している自己を頂く気があるのかないのかということだ。

ややこしいが、そこは譲れない。「どうでもいい、でも、どうでもよくない」というのがホントのところ、以心伝心、言詮不及、教外別伝のところなのである。
一見、夫人を見下したような生返事に聞こえるだろうが、私としては夫人に仏道を誤らせたくない深い愛の為せる業なのである・・・・・。


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「台風」

台風の臍の羊水生温き

くわりんの実ごつんと落つる夜の屋根

木守柿やれかぶれの風の中

赤蜻蛉名もなき棒を選びけり

野分より戻りし妻の胡乱なる

台風の腸見ゆる岬かな

木々はみな手を振るかたち秋の暮

海晴れて風もみあへる青蜜柑

小鳥来るわが十字架の木漏れ日に

淋しき手に林檎一つを渡しけり




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