再生への旅

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zoom RSS 自己を見捨てない

<<   作成日時 : 2013/10/11 04:12   >>

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秋の雲この世に二人子を遺す 玉宗

嗣法加行で帰省していた弟子が僧堂へ戻って行った。
毎日百拝以上の五体投地を二人で繰り返した。弟子は平気であったようだが、流石に師匠の私には骨身に応える行であったらしく、ここにきて古傷の右膝が痛くなった。日を置いて疲れたり痛くなるのも加齢現象である。まあ、このようなことも恐らく二度とない経験であろう。弟子と共に過ごした行の日々の記念である。境内に密かに記念植樹をしようかと思っている。

普段から結構会話のある父と子であるが、昨年の春から現在までの僧堂生活の様子や心境、そして今後の在り方などを語り合ったことである。
会話をしていてつくづく感じたことは、弟子の若さそのものである。
若さとは純粋にして、無知であり、無垢であり、傷付きやすいものであり、理想を先立てたがり、正義をかざしたがり、視野の狭さがあり、柔軟でありつつ、清濁併せのむことを潔しとせず、背伸びをしたがり、等々、つまり可能性の渦、混沌そのものであるということだ。私はそれを笑っているのではない。むしろ痛ましいと思うほどに羨ましいのである。彼には怖ろしいほどの未来がある。乗り越えるべき諸行無常がある。

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人間が独り立ちするとは如何にも難儀な旅であると思わずにはいられなかった。彼は修行しつつ人間勉強をしているのだなと感じたことである。まだ人間が如何なるものであるかを知らない。目が外ばかり見ているのが危惧されてならない。外への批判や区別の眼差しが翻って自己へ向けられることなくして、人間性の深みなど期待も出来ない。まして、仏道はそのような人間性を越えたところをねらっているのである。人間性に左右されない、いのちぶれない生き方、自己決着、戴き方、施し方の謂いなのである。人間界隈の分別の地平を行ったり来たりしている暇などありはしないのだ。仏道は競争ではない。宗教なのである。

早晩、そのような自己の若さに気付き、絶望することであろう。若者は一度は絶望しなければならない。絶望したこともない人間を私は信用できない。いずれにしても、まだまだ紆余曲折があることだろうが、自己の可能性をあきらめない事だ。自己を見捨てない事だ。それこそが人が諸行無常の人生から学ぶ真髄であると言ってもよい。
仏弟子として生きていく覚悟があるのなら、自己を見捨てることをしないことになんの遠慮もいらない。仏道と云う自得の世界で見えて来るものが必ずある。


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「杜鵑草」

菊月の風の梳きたる深空かな

泣きやまぬ赤子に見する蓼の花

能登沖は白波走る小豆稲架

またもとの二人の暮し杜鵑草

通草の実仰げば空の深さかな

濡れてゐるこころにかよふ螢草

水引の花には遠き雲ばかり

つはぶきの花のまわりが暮れてをり

子の僧衣畳んでゐたる秋灯下

おかはりを母がよろこぶ素秋かな






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