再生への旅

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zoom RSS 仏道という生き方

<<   作成日時 : 2013/10/23 05:12   >>

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風はもうだれのものでもない芒 玉宗

市内にある福祉施設から職員を対象にした法話の依頼があった。
世に福祉産業といった名称があるのかどうか存知しないが、時代の要請のしからしむるところといった観が否めない。常識化していると云ってもよい。
人間社会には様々な生き方があるのが現実である。その道に入ったならばその道の作法、宗旨、規範、通塞があろう。福祉産業の道をとやかく云う資格など私にはない。私は私の道の様子を語ろうと思っている。それが他の道を行く人にとって、些かの標とされば幸いなことである。

「仏道を習ふというは自己を習うなり,自己を習ふというは,自己を忘るるなり,自己を忘るるというは,万法に証せらるるなり,万法に証せらるるというは自己の身心,他己の身心を脱落せしむるなり」
(正法眼蔵現成公案)


云うまでもなく、私は仏道という生き方を選んだ人間である。一度きりの、諸行無常の人生を、掛け替えのないいのちを仏道に賭けたのである。それは仏道に身を捨て、心を捨てたということである。そういうことでなければならない。
そこには欲望に振り回される世界に見切りをつけた初心があった。出家とは本来そういうことではなかろうか。

仏道とは何か?
自己を習うことだと開山は云う。自己とは何か?習うとは何か?目覚めなければならない。存在への切り込み。いのちの深さ、豊かさの検証。自己の実相こそが自己の依る辺であるという極めてあたり前の事実。その事実への回帰、そして往還。いのちとはだれのいのちか?だれのものではない。徹底自己のいのちの話であり、その様にして仏弟子は自己を極めて社会へ関わって行く。

仏道はそのようなアプローチで社会に参加し、役に立とうとしてる。どこまでも絶対いのちの領域からの話であり、実相を差し出すことでぶれない生き方を示し、そのような仕方でいのちの尊厳を説くのである。ここに至って仏道は宗教に括られて一向に構わないものとなろう。

人生の拠り所、生きる姿勢、バックボーンとしての存在意義を担保している。
そこには欲望を越えた世界を顧み、掌とするものだけが諸行無常をわがものとすることが出来るという矜持がある。それは競争ではないが、競争ではないからこそ徹底自己責任の、誤魔化しの利かない世界である。仏道の通塞もまた那辺に自得させられる代物なのであり、自得であるからこその救いなのである。私たちは本来そのような偏りのない、比較を越えた可能性に満ちたいのちを戴いて生きている。

それこそがいのちの尊厳であり、生きていく意義であることを私は疑わない。私にとって福祉とはそのようないのちへの目覚めと寄り添いでなければならないと思っている。

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「焚火」

夕星にひとり消えゆく焚火かな

不器用に生きて焚火に身を焦がす

湯に浸かるごとく焚火の輪に入れり

かたはらに仕ふる朝の寒さかな

まなこ荒れひときは光る石蕗の花

焚火さびしも人を恕してやらうと思ふ

ひもすがらつれなき空やお茶の花

雲中に日のまどろみて綿虫来

暮れてゆく夢のゆくへや雁の声

胸に燠灯して釣瓶落としかな

違ふ夢みてゐて無口焚火の輪




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