再生への旅

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zoom RSS 迷いと悟りは五十歩百歩?!

<<   作成日時 : 2013/10/27 06:42   >>

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夜の雨灯下親しき枕辺の 玉宗


上堂。挙。僧問京兆華厳休静禅師、大悟底人却迷時如何。休静云、破鏡不重照、落花難上枝。

師云、永平今日入華厳之境界、廓華厳之辺際。事不獲已、鼓両片皮。或有人問大悟底人却迷時如何、只向伊道、大海若知足百川応倒流。




一般的に云って「迷う」には選択を迫られて判断しかねている状態がある。それは物事の結果や成り行きを想像出来ないということでもある。それから、もうひとつ「迷う」には現代は余り使われないかもしれないが、「あいつは女に迷っている」という表現にあるような、相手の言いなりになっているような状態にも使われる。

一方、「悟る」には物事の真相を知っているとか、諦めているといった、選択に当って的確な判断行動が出来る状態であろう。また、「悟る」には胆が据わっている状態を指していることがある。生きてゆく姿勢がぶれない、なにものにも左右されず右顧左眄しない、独りよがりの様な孤独感、存在感。そういう意味では「迷い・悟り」は確かに反対語である。

ところで様々な反対語がそうであるように、「迷悟」はどちらかを捨て、どちらかを取る、というような選り好みやり取りや比較が可能なものなのだろうか?どちらも迷悟に亘る「自己のいのちの様子」ではないのか。迷う時は迷う、悟る時は悟る。極めて当たり前の、いのちの一事実であり、諸行無常の一風景であろう。そしてそれはどちらも自分持ちの領域を出ないものではないのか?「いのち」の一風景としては五十歩百歩ではないかと言いたい。勿論、五十歩と百歩は違うと言えば違うが、同じ穴の狢と言えなくもなかろう。

要するに、私が迷った、私が悟った。そんなケチなことが宗教の救済や解脱なのだろうか?と、私は思っている。というより迷悟に拘る「わたし」こそが問題なのである。迷悟に滞らず今、ココにいのちの真を尽くすこと意外に何の自得があるというのだろう。
飽きもせず死ぬまで、誰にも知られずいのちの真を尽くすことを繰り返す。そのような尽力こそが道人とは云うのではないのか。仏道とはどちらかを取ったり捨てたりして、というような都合のいい世界の話ではなかろうと思っている。

同じ迷ったり悟ったりするならば、仏の世界の言いなりになる、仏任せのぶれない生き方もまたあろうというものだ。

 迷を大悟するは諸仏なり。悟りに大迷なるは衆生なり。<正法眼蔵・現成公案>



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「紅葉冷」

命ほどの火の恋しさよ神無月

紅葉冷たづさへてこの旅愁かな

障子貼る母が貼りたるやうに貼る

切株のまざまざとある月夜かな

思ひ遣ることもかりがね寒きころ

古酒酌んで棺を担ぐ約束を

小鳥来てどつとよろこぶ梢かな

干柿や日はつれなくもとこしなへ

流れゆく星の孤独を思ふなり







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