再生への旅

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zoom RSS 興禅寺通信十一月号

<<   作成日時 : 2013/10/28 05:02   >>

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命ほどの火の恋しけれ神無月 玉宗

興禅寺寺通信十一月号           

人生には様々な岐路があります。生きるとは常になにがしかの選択の連続であるとも言えましょう。生老病死の人生の折々、人は苦悩することも多いのですが、それらも又一つの岐路であるに違いありません。

板橋禅師が若いころ学んだ井上義衍というお坊さんのお話に次のようなものがあります。

〈「どうしようか」「こうしようか」と悩んでいる、と。それは通常迷っている、悩んでいることだと思っている。そうじゃない。少しも迷っていない。そういうことを知ってもらいたい。 「どうしようか」という時、「どうしようか」ということがあるだけ。「こうしようか」という時、「こうしようか」ということがあるだけです。 いろいろ、その先のことを考える。迷っているんじゃなくて、考えの中にいるだけです。考えの中で生活しているだけです。迷っているのではない。 これからやることがあるから考えるのであって、やらないんだったら考える要はない。「石橋を叩く」という話がある。あれは渡るために叩くんです。渡らないのなら叩く要はない。 今の自分の在りようです。考えとしての動き、その動きに教えられればよい。動きとしての事実に教わればよい。その動きに対して考えが動き、考え方で取り扱うのが人の常。 「痛い」ということ、「困ったな」ということがあっても、それに迷うということはない。 <平成24年 龍泉寺カレンダーより-〉

よくも悪しくも、人は「事」に当たる前に、いろいろ考える癖があります。考えることが「悪」なのではありません。いのちにとって考える事は万能ではないと言っているのです。考えてばかりいて、或いは考え過ぎて「渡る気があるのかないのか」、それこそが問題なのです。というより、生きているとは石橋を叩きながら渡っている今の事実のことです。その事実にいのちは教えられています。学んでいます。いのちは一度だって迷ったこともないし、迷うこともありません。尽未来際、生のときは生、老のときは老、病のときは病、死のときは死であるばかり。どっちへどうころんでもなんともない石橋の風光、迷わないいのちの様子があります。
いのちの戴き方、それを「信の世界」とはいうのではないでしょうか。ご自愛を祈ります。合掌

観音祈祷法要のご案内

能登半島地震復興を記念して始めました興禅寺の法要。
観音大般若転読祈祷会を十一月十八日(月)午後二時より行います。
今年一年の無事への感謝と来たる年の安寧を祈ります。
お誘い合わせの上、ご参拝下さい。合掌。

願主各位





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「火を恋ふ」

あなたなるいのちの果てや火を恋ふる

戸惑ひの手応へもなき菜を間引く

月光の飛沫をあげて鮭のぼる

教会は森の止まり木小鳥来る

ふるさとの秋風何を思へとや

紅葉狩酔うた顔して戻りけり

うそ寒く月の面にゐるごとし

身も蓋もなき貌をして秋惜しむ

冬眠に向かはむとしてゐるらしき

虚仮の世に骨身を削り氷頭膾






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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
二つの台風が通り過ぎて行きました。遠い海にあるうちからずっとを心配していました。ちょっと向こうを通ってってお願いできないところが、やっぱり自然なんだなぁと思います。

ふだんの生活の中では、どうしよう、これでいいのかなぁ、と迷うことばかりです。こちらも何となくなるようになって毎日が続いているのが不思議です♪
kingyo
2013/10/28 09:38

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