再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 俳句文芸誌の世襲制について

<<   作成日時 : 2013/10/28 06:49   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


杜鵑草寄らば大樹の翳りあり 玉宗

俳句で飯の食えることを悪とは言うまい。
芭蕉さんだって、一茶だってそうだったし、今も昔も、匠宗とか主宰とか先生と呼ばれる作家・大家は句会や結社の指導や数えきれない俳句大会や新聞雑誌の選者として報酬を戴き、なにがしかの碌を食んでいる。まあ、その中で長者番付に名を連ねる御仁はそういないであろうが、私だって、出来ることなら好きな俳句で暮らしていけたらと夢を見ない事は無い。が現実はそう甘くない。ここもまた実力と運との誤魔化しの利かない世界である。

最近、創刊百年を越える某有名俳句結社の主宰がうん十年ぶりに交代したそうである。三代目からは世襲となっている結社である。創刊者の文学魂を思えばなんのこっちゃと思わないではないが、俳句文芸は竟に芸事の宿命を免れないことに暗然となるのを禁じ得ない。正確には俳句結社運営と云うべきなのかもしれない。

傍目には王国とも称される彼の俳句結社には宗教団体でもあるかのようなイメージを纏っている。会員同人も又、教祖である主宰が世襲を待ち望む喜び組なのだから、何をかいわんやではある。鰯の頭も信心から。たかが大衆文藝、目くじら立てる筋合いのものでもないのではないといった見解もある。当事者たちがそれで収まっているというのだから文句を言う筋合いも、言われる筋合いもない。

思えばどの世界だって伝統を受け継ぐ当事者が身内であることに越したことはないといった情が介在する人間社会である。私が飯を喰わせて戴いている仏の世界だって世襲によって今に至っているのが大半であるというのが実情である。「文学」や「仏法」という本質ではなく「生活」という実際が優先してしまっている現代。見渡せば裸の王様ばかりではないか。それでも廻っている世間なのだから掛け値なしに大したもんではある。

然し、これはどこまでも枠外にいる人間の管見、僻目であろう。要は本人がどこまで世襲の重圧の中で継ぐべきものを継いでいるかである。文藝に恥じない作品を世に送り出しているかどか。本人次第ということだ。廻りがとやかくいうほどの弊害が及ぶとも思わないし、王朝も又懶熟し、やがて消えてなくなるといった諸行無常の歴史がある。

一方では一代限りとして自分の代で結社を終刊した主宰も少なくない。私が所属していた「風」などはそうである。沢木欣一という俳句文学者は世襲など有り得ないといった潔さを持ち合わせていた。俳句経営は世襲出来るかもしれないが、文学魂は世襲できるできないの領域ではないといった良心があった。

どちらを是非とするかなどといったことを云うつもりもない。そのような詮索もまた文藝の本質を見誤る管見と大差はなかろう。文学は人である。人は文学である。俳句も、俳句結社もまたそのような本質から免れ難い代物なのだと思っている次第に越したことはない。佳き俳句、佳き人に巡り合いたいだけだ。




ランキング応援クリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
俳句文芸誌の世襲制について 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる