再生への旅

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zoom RSS 道は無窮なり

<<   作成日時 : 2013/10/07 04:13   >>

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紅葉且つ散り且つ掃きぬ日々なりし 玉宗

一週間前からしていた弟子との嗣法の行持。今朝をもって滞りなく済ますことができた。

今日は予ねてからの念願であった弟子と二人での托鉢に出掛ける。嗣法の行持満ちてのちの下座行の随喜である。坐禅と托鉢と作務。この三本柱・基本が禅僧の禅僧たる面目であると師匠に諭されて生きてきた私である。托鉢もまた大事なわが家風として伝えて生きたいのである。

弟子を見ていると、本人は早くお寺の戦力になりたいといった思いがあるようだ。それは師匠である私にとって少なからず意外な本音であった。なるほど成人し、家業を継いだ子であれば、そう思うのが当然なのであろう。然し、師匠である私としては、みっちり基本を叩きこんでほしいのである。どのような世界でも、その路で一人立つには基本を疎かにしては元も子もないのが実際のところだろう。だいたいが戦力とは何事であるか。貧しいお手の為にもお布施を稼ぎたいとでも云うのであろうか。

慌てる乞食は貰いが少なく、急がば回れとは実に人生の本質をついている。どの世界でも、やるべきことをやっていてこそ、お天道様は食べさせてくれるものである。法輪転ずれば食輪転ず。餓えて死ぬようなことになったらそのときジタバタすればいいのである。
仏道には無駄骨を厭わず、というより無駄をどうどうとやってのける力量こそが求められていよう。石の上にも三年。仏道は更に黙って十年の世界である。道に極りの無い真相からすれば、更に参じて三十年と言われる。
仏道を歩き始めた本人にしてみれば、三十年とは気の遠くなるような年月に受けとられていることであろう。

然し、この三十年とはひとつの指標である。その実際は「道は無窮である」と云っているに等しい。極り、終点がなければ安心して今に承当し続ければいいのである。外れる心配はない。どこをどう生きたって道のただ中の様子として戴けばいいのである。
道に諭され、道に励まされ、道に叱られ、道に礙えられ、道に引っ張られ、道に迷い、道の言いなりになり、道に生死すればいいのである。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。身を捨てなければ浮かぶことも出来ないのが道の道たるところである。道を極める、などと云った妄想ではなく、道とともに生きるといったほどの覚悟、開き直りが身のためである。無窮であればこその方向性、目的意識・こころざしがあってこその道人である。結果などといったものは一つの妄想に等しい。道とは原因と結果の繰り返しである。アップデートこそが道の道たる所以であろう。歩くのをやめたとき道は雲散霧消するのである。それは仏弟子として死を意味するに等しかろう。

このような道の通塞は、ひとり仏道だけではなく、道と名付けられるすべての世界に共通しているのではあるまいか。托鉢という下座行、身心学道は理屈抜きでそのような道の様子を教えてくれるものである。これは私の経験則からの独断である。


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「案山子」

山葡萄幼馴染の味したり

雲水に掃き出されたるいぼむしり

虫の音も風に途絶へし日となりぬ

鵙の贄日は金色に落ちゆけり

鳥渡るまだ見ぬ夢のあるやうに

鎌祝ふ星降る夜の山家かな

役終へし案山子引き抜く夕べかな

稲を干す日をたまはりし夫婦かな

甘藷喰うてをれば難なき妻なりし

屈葬の深さ自然薯掘り当てる



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