再生への旅

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zoom RSS わが修行遍歴

<<   作成日時 : 2013/11/01 06:35   >>

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おもかげの野菊手折りぬみちのべの 玉宗

最初に出家したのは、秩父にある臨済宗のお寺であった。小僧として住み込んでいた頃、鈴木大拙などの著作を理解も出来ぬまま読んだりしていた。臨済禅師の「赤肉団上に一無位の真人あり。常に汝らの諸人の面前より出入りす。いまだ証拠せざる者は、看よ看よ」や白隠禅師和讃の「衆生本来仏なり」という言葉を知ったのもこの頃である。

赤肉団とは肉体であり、一無位の真人が、常に出たり入ったりしているが、肉体の持ち主自身が少しも気付いていないというのだ。 「俺の肉体を出入りしている無位の真人がいるんだ!こんな俺でも仏なんだぞ!」などと、「無位の真人」とは何であるか、「本来仏である」とは何なのか解りもせず、解ろうともせず、小僧ながらにも只事ではないと気張っていたものだった。

その後、臨済宗とは縁が切れて、曹洞宗での修行をすることになった。「無位の真人」という言葉も聞かれなくなり、いつの間にか忘れていた言葉となっていた。身心脱落の坐禅を宗旨とする曹洞宗での修行も自己の仏性に目覚めることが基本である。又、道を求めるのに闇雲でいいはずもなく、宗門に於いては修行の体系がそのまま証果の現成であるといった観がある。然し、私は理想的な宗門人の行履とは懸け離れていると思うことが多々ある。アウトサイダーといえばまだ聞こえもいいが、実際のところは宗門の落ちこぼれ的存在であろう。

お坊さんとしてのわが人生を振り返ってみて、私には私なりのお粗末でありながらも掛け替えのない貴重な体験があった。闇雲ではあるが、どんなに年季を経ても抓れば痛いのは私であるという事実を捨て去ることが出来なかった。理解することと身に覚えあることとの乖離。そこで傷つき、目覚め、再生を繰り返し学んできたのが今の私の総量である。

人はだれでもそれなりに人間らしさを具えており、哲学者であり、求道者であり、生活者である。修行とは人生の問い方を先人に習うということでもあり、先人と同じ人生を歩むということではない。出来るはずもない。みなそれぞれの本来の面目がある。それぞれの今がある。いのちがある。いやがうえにも自己本来の道を歩んでいるというのが実際であり、またそうでなければ成仏とはいえない。それぞれに成仏してなんともない。それを浄土とは云うのである。

生きることがそうであるように、修行も又、人それぞれに具体的な体験であって初めて肝にも、腹にも、赤肉団にも納得する機縁となるだろう。自己に絶望し、執着に絶望して開けてくるものがある。それに目をつぶらない。そこでこそ無私なる、謙虚な姿勢が求められる。
痛い目に合って知る自己の真相、無位の真人といったものがある。空なるままに空を学ぶ。それが私のこれまでの修行遍歴の実際から得た教訓である。


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「一葉」

ほそみゆく水の音にも秋深み

咲くといふほほけちらしてゑのこ草

藤袴胸の高さに咲きそろひ

団栗を十まで数へほめらるゝ

賽銭に混じる木の葉や木の実やら

うつろなる空のあかるさ銀杏散る

音もなく天降る一葉のありにけり

腸に応ふる桐の一葉かな

零余子蔓隠るとみえて紛れなし

寝ねがての月の枕辺残る虫

子を連れて狸来てゐる典座かな






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