再生への旅

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zoom RSS 冬木の記憶

<<   作成日時 : 2013/11/12 04:51   >>

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傍らを行くたび仰ぐ冬木あり 玉宗


全国的に荒れた天候となっているようだ。雪の報せも多くなった。能登も冬の雨もよいの日が続いている。一雨ごとに寒さも募っている様である。今日は納屋からストーブを持ち出して暖房を入れてみた。
境内の木々も葉を落としはじめ、冬木の装いといってよい状態である。木の葉が四五枚枝先にすがりついて、時々小さな風に揺れている。透かされた枝の向うには妙に静かな11月初冬の曇り空が広がっている。

山眠るという季語があるが、木々もまた眠りにつき始めようとしている。春夏秋冬、単に季節の移り変わりの情趣といえばそれまでであるが、初冬の静けさは歳の果て、年末へ向かう心細さとどこかリンクしているようだ。そしてそれだけではなく、じっと眺めているうちに、この時季の風景のものさびしさは、かつでどこかの、遠い昔の思い出に繋がっていることに気がつくのである。

ものごころついた私に残る初めての冬の記憶。冬を迎える淋しさの記憶。そこにはなぜか父と母の姿がない。夏場の昆布漁も終え秋にひと段落すると、兄と私と妹の三人の子供を知人に託し、両親は二人で冬場の出稼ぎに行っていた。年末年始に一度は帰ってきていたようだが、子供ながらに親のいない家で冬を迎える淋しさが記憶に残っているのだろう。そんなとき幼かった私は今のように裸になった裏山の木々を仰いでいたのかもしれない。いや、父や母に甘えるようにその幹を擦り、木々に語りかけ、よじ登ったりして、ひとり遊びに興じていたのであろう。

そんな私にとって冬木は「死の象徴」ではなかった。。来るべき春の芽吹きに備えて息を凝らして何かに耐えている「希望の象徴」といってよいものだった。その何気なさ、逞しさ、静けさが、子供たちに楽しい正月や春を迎えさせてやろうと苦労していた両親の姿に重なっている。そのことを親を失ったこの年になって気づいている。

冬木には人生を象徴している淋しさと逞しさ、そして優しさがある。人の親となった今、私は二人の子供にとってどのような冬木として映っているのだろうかと、ふと思ったりした。



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「冬安居」

墨染の袖も古りけり冬安居

縄跳の百まで飛んで失恋す

冬安居風の百日始まりぬ

雨ながら訪ふ客のあり実南天

目瞑れる十一月のしづけさに

夜をすさぶ風の唄あり木の葉髪

鳥もかよはぬ松尾芭蕉の忌なりけり

頬被しらふの父のをかしさよ

風呂吹や眉毛に白きもの見えて

囚はれの身とな思へと蒲団敷く





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