再生への旅

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<<   作成日時 : 2013/11/18 05:09   >>

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うつろなる冬大空のあかるさよ 玉宗

『人間は、努力するかぎり迷うものである』ゲーテ 「ファウスト」

確かに、人生の途中とは常に過程であることを免れないといった言い訳がいくらかは通用する。いくらか、と言ったのには私なりの訳がある。上の格言は人間性の一面を語って余りないものであろう。人間の相場はよくも悪しくも哲学とか思想とか文学といった迷いの世界の構築物を弄ぶ。それはほとんど本能的にさえ見えて来る。

仏道はどうなんだろう。
仏道もまた人間性の為せる業と云って差支えなかろう。「禅」「仏道」が宗教でないとかあるとか、実践哲学であるとかないとか、私にはよく解らない。というか上手く講釈できない。はっきり言ってどうでもいい。私にとって仏道は生き方であるといった理想がある。仏道が生き方であるとは死なないでいられる存在理由ということ、そしてそのような理想を引っ提げての渡世でもあるということだ。

生きているとは可能性の当処現場そのものである。今とは既に過去ではなく未来でもない、時間を超越している事実のことである。私は一度きりのいのちを仏道と云う欲を越えた世界へ賭けたのである。それは私にとって必然でもあり偶然でもあった、としか言いようがない巡り合わせである。人様と比較されるような筋合いのものでは毛頭ありえないし、到底あってはならない話である。

人にはだれにも、だれの人生にも、限りあるからこその、いのち生きる醍醐味といったものがあろう。
死ぬことでいのちはその本来の面目を全うする。生と死がいのちの条件。人は永遠のいのちを願っている様ではあるが、死なないいのちと云ったものは殆ど無意味である。そこには人生といったものが成立すらしない。
人生、それは死という完結を俟って意義あるものとなる。それはどんな道でも同様であろうと思う。

いのち生きること、人生、それはいつ終るともしれない。それだけをしてみても、いのちは本来私の恣意でどうにでもなるような代物ではない。まさに授かりものである所以でもある。
この世に生まれ出で、去ってゆく。いのちとは空しさをその身上としている。この身上に身も心も擲って歩む意外に永遠へ繋がり、永遠へ回帰し、永遠を忘れる手立ては無いように思われる。


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「冬菊」

ありつたけ抱いて冬菊あたゝかし

着脹れてゐるほかはなし今日も又

落葉掃く音のいさゝかふてくされ

会ひにゆく銀杏落葉に追ひ越され

白鳥のしづかなること死のごとし

北風に軋み泣く夜や裏の山

胸に疼く夢を熾とし冬籠

機嫌なほ空にもありて冬はじまる

一茶忌の寒さつのりて臍曲がる

亡骸に寄り添ふ足袋の白さかな

山颪背中に大根洗ひをり






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