再生への旅

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zoom RSS いのちの般若を転じる

<<   作成日時 : 2013/11/19 04:53   >>

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しぐれ来る暗さ去りゆく暗さとも 玉宗


昨日は11月初冬らしからぬ荒れ模様の天気だったが、興禅寺大般若祈祷法要を修行した。
時雨の中を集って下さった善男善女の参拝の皆さん。御利益を願ってのことは重々承知している。法要後には宗門に於けるご利益についてお話ししたことである。

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基本的には大般若経を転じる作法に則っている。
般若経による祈祷の本領は何だろうか。祈祷といえば現世利益の成就を期待する向きが一般的であろう。現世利益を嘲笑するのでも否定するのでもないが、究極の利益といったものを考えたとき、そこにはどうしても損得の欲望を越えた世界に落着する以外にないのではなかろうかという思いが私にはある。般若を転ずることによって戴き、気付かなければならない世界とは、そのような欲を越えたところに出会うための「清浄行」といったものであろう。


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儚い一生の命、最も尊い人生の宝とは何だろうかと立ち止またとき、欲を満たすの満たさないのといったご利益云々はどこまでも欲の世界の話であることに気付く。それをしも輪廻の世界の話という。仏道とはそれでいいのかとということだ。

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欲を越えた「なんともない、ありがたさ」のところで落ち着くのが仏法の話ではないのだろうかと。そのようなのびやかな、執着を離れた地平に出る為の「行」である筈である。私は私自身や参拝者皆さんの欲を満たさんがために「行」を積んでいるのではない。我他彼此のない、無私なる世界を現成させんがための「行」であり、「祈願」であり、坐禅であり、仏弟子としての日常でなければならないと思っている。一挙手一投足、前後左右、喫茶喫飯、その時、その場、一歩一歩がそのような「般若」を転じる「行」の場、「道場」であるということ。そこに目覚めなければならない。

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身を捨てこころを捨て、無心になることによって照らし出される自己、自己の命の実相、その闇と光。欲を越えた世界。現世利益という方便の向うにある信仰の深さ。自己切りの自己としそのような本物の信仰を戴き、施す。そのような信者さんになって戴ことに力を尽くすのも行者の使命でもあろう。それもこれも「いのちの般若を転じる」私の「行」の真偽が試されているということである。心して生きて行かなければならない所以である。


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「耳」

大空へよろこび舞へる木の葉かな

徒食なる顔しておでん屋を潜る

恫喝のごとき大家の咳払ひ

冬の夜の妻の尻へに敷かれをり

ダメ出しを喰ろうてゐたる蒲団かな

木枯しが海鳴りとなる僧の耳

夜もすがら北風聞くや膝枕

蜜柑喰ふ動機がどうも見当たらぬ

凩の沖をどこまで行つたやら

白菜のなかば手抜きの重さとも

冬木立愛なき街を捨て切れず

鴛鴦の纏はりつくを愛といふ

毛糸編む母を失くして以来なり

角巻の母のやうなる姉なりき







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