再生への旅

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zoom RSS わが人生のアリバイ

<<   作成日時 : 2013/11/21 05:15   >>

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山眠り空ゆくものの影もなし 玉宗


以前、板橋禅師にわが身の不遇を愚痴ったことがある。

「一生懸命にやっているんですけれど、誰にも解って貰えなくて・・・」

「一生懸命生きていない人間がいるとでもいうのかい?!」

何気ない御答えのされ方に頭を殴られたような思いであった。

私のやっていることは無駄な、そして余計なことなのかもしれない。道を外れているのかもしれない。しかし禅師様は一度もそれを咎められるようなことはなさらなかった。只、グチグチと今をないがしろにしてはならないことを諭される。いつもそうである。自問自答を抱えて禅師様に会いに行くのであるが、いつもその自問自答がとるに足りないことに気付かされる。そしていつも手ぶらで帰るのである。それは他でもない、自己の命、仏の命を粗末にしてはいないか、と諭されているということなのである。禅師様は私にとってそのような存在なのである。


私はお坊さんや俳人が人様より上等だとも下等だとも思っていない。共に愚かだったり賢かったりするだけだろう。俳句がつまらないのではない。つまらない俳句があるだけだ。宗教があやしいのではない。あやしい宗教があるだけだ。お坊さんが胡散臭いのではない。胡散臭いお坊さんが偶にいるということだ。

詩人や聖職者が神や仏に近いのでもない。そっちの方を向いて生きているだけのことだ。 ただ、それだけのこと。共にただ人間なることに変わりはなかろう。人間たらしと云われる私であるが、基本的には自分も人も買い被りたくはないのである。あるがままに出会い、共感し合いたい。

なぜかわからんが、身も心も軽く、そしてできれば真摯に人生を生きてゆきたい。なぜか知らんが、人に比べられて評価されることや、競争するといったことを極端に忌み嫌うようなところがある。どういう訳か、ときに人間らしさを焦がれ、ときに人間らしさに我慢ならないところがある。仏弟子となったことも、俳句を始めたことも、ブログをはじめたことも、そのような矛盾した生きる姿勢の延長線といって差支えないひとり遊びである。

私は何物であるかないか、私が本物であるかないか、正直にいえばそれは私にとって即答できない問題だ。生きるとは可能性を生きている。そんな誰にでも赦される弁明を私も用意はしている。一度切りの人生を歩むものにとっての条件はそう違いはしない。死んでみて初めて私の人生の真偽が明らかとなるのではなかろうかと、たかを括っているようなところがある。逆説すれば、私と云う人間はいつも本物であり、いつも偽物であるということだ。

人生のアリバイについて、今の私にはそれ以上のことは言えない。


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「炭売」

炭売といふより只の山男

母がゐてうれしき障子明りかな

吾もまた徒食の類着膨れり

カタコトと母の音する冬襖

路地行けば昭和の匂ひ波郷の忌

山眠り空ゆくものの影もなし

沈みたる紅葉の見ゆる水鏡

夕影にひとり揺れゐる木の葉かな

凩の空を高舞ふ鳶の笛

夜の雪筋金入りの淋しさに







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コメント(2件)

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「一生懸命にやっているんですけれど、誰にも解って貰えなくて・・・」

「一生懸命生きていない人間がいるとでもいうのかい?!」


冒頭のやり取り、いいなと思いました。私もよく「頑張っているのにうまくいかない、もしくはわかってもらえない」と思うことがあります。でもみんな、やってるんですよね。
ありのまま生きる…できそうで難しく感じています。
しぃ
2013/11/21 22:34
今晩はいつも嬉しい記事をありがとうございます。私もブログを書いているのがなんのためにと思う時があります。無駄なことはないのだと思い直して続けています!俳句いつの作品も心に響きます。
たろうくん
2013/11/22 19:09

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