再生への旅

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<<   作成日時 : 2013/11/04 04:58   >>

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いのちほどの火の恋しけれ紅葉山 玉宗


本山の大根托鉢が始まる頃になると、農家の野菜畑も殆ど収穫し尽くしたような状態である。枯れ草でも燃やしているのだろうか、あちらこちらで煙が上がっている。ひつじ田が続く道を山裾沿いに歩いてみた。民家は少なく、みちの辺の草花に嫌が上にも目が止まる。人知れず咲く野の花に励まされ、癒される。

山蔭に入ると、綿虫が目につくようになった。雪虫、雪蛍、雪婆(ゆきばんば)、白粉婆(しろこばば)、大綿とも呼ばれる晩秋・初冬に青白く光りながらゆるやかに飛んでいる。というより、浮いているみたいな感じである。体長2ミリ内外の小さな虫である。

「大綿来い来い飯食わしょ、飯がいやならとと食わしょ」「雪ばんば、雪ばんば雪を背負っておでやいよ」などというような童歌があるそうだ。生まれ故郷の北海道でも「雪虫」という言葉をよく聞いた覚えがあるのだが、なんだか、こちらで今飛んでいるものと違うような気がしないでもない。いづれにしても、この虫が舞うようになると冬の到来を実感する。ゆっくりと密やかな、そして確かな冬の足音。

人気のない人家には、慎ましくも、逞しく自然と共に生活している田舎の人達の痕跡があった。

「過疎」、なんて嫌な言葉だろう。
経済効率重視の世の中に置いてきぼりをくった、ということなのだろうか。人生の豊かさとは何なのかと考えさせられる。ものがなくては生きていけない。それは人間の宿命であろう。そうではあるが、ものに先走りされている現代には何か釈然としないものがある。ものを切り捨てるように心を清算できると思っているのだろうか。人類はどっちへ向いて歩を進めているのだろうか。

こころを豊かにするものがある。こころを貧しくするものがある。ものに流されるこころがある。ものを活かすこころがある。ものとの出会いも、人と同じ一期一会であろう。それはつまり、私の命であるということだ。

過去を清算するとはどういうことであろう。貧しく過ぎた日々も掛け替えのない私の命であった。惜しんでも悔んでも羨んでも二度とない、そのような私だけの時の流れ。そのようなわが命と折り合いをつけることができなくて、どうして未来が開けようか。田舎を切り捨てるような日本に、豊かな未来など私には想像できない。

様々な人生を包んでいる山ふところも、秋の装いを解いて冬の眠りに就こうとしている。今はまだ眠りにつく前の、ちょっとした欠伸のような日和であった


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「竜田姫」

紅葉且つ散りゆく空のしじまかな

狩人に裳裾にぎはふ竜田姫

恥多き人生であり秋刀魚焼く

秋虹やなにか大きな忘れもの

朽ちてゆく骨の冷えあるもみぢかな

さまよへる風に沖ある芒かな

石山の肌あらはにもみづれる

空はうつろな金管楽器冬来るか

飲食のひとりの音やうそ寒し

都なる紅葉の冷えにおどろきぬ




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