再生への旅

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zoom RSS いつも正念場?!

<<   作成日時 : 2013/12/17 05:16   >>

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火の色を好む冬鳥来たりけり 玉宗

正念場とは八正道の「正念・物事の本質をあるがままに心にとどめ、常に真理を求める心を忘れないこと。正しい思念」からの派生語であろう。一般的には「今が正念場!ここが我慢のしどころ」として自分を励まし、他を励まして、今を乗り切ろうとしたりする際の言葉として流通しているようだ。

過ぎたことをいつまでも引きずり、まだ来ぬ先を憂うる。又は、今の事実に暗く、偏り、目覚めていない。「邪念」なる所以である。それはとりもなおさず今を疎かにしていることにほかならない。いのちを疎かにしていることにほかならない。「正邪」を云々するのは、目に見えない「念」が疎かならないものであることを諭しているからだ。

いのちの自ずからなる知恵徳相、念がある。煩悩として忌避されるべきは知恵・分別・思念そのものではなく、それらとの間合い、扱い方であろう。煩悩という固まったものが存在するのではない。間が悪いのである。思いが邪まなのではない。間の取り方が邪まなのであろう。予断予見なく、まっすぐに事実から学び、まっすぐに三世から学び、まっすぐに今から学び、まっすぐ念から学び、まっすぐ生死から学び、まっすぐいのちから学び、まっすぐ諸行無常から学ぶこと。いつも、ただ、今、ここを、正念場として向かいあう。逃げない。「正」とは「一に止まる」と書くが、仏道に於いてその「一」とは「今」のことである。仏道の「一」とは数ではない。「全」又は「一如」とも謂い得る「いのち一体」の謂いであろう。

解ったつもりで生きてはいるが、過去も未来も、一寸の前後は共に闇の世界であるのが実際。暗闇の世界でいのちの光りを絶やさない「正念」が求められる所以でもある。いつも正念場であるがゆえの仏道の明るさ、広やかさなのであろうと思っている。人間はときに迷いたがる動物ではあるが、何故かまっすぐ生きたがる動物でもある。止まるべき「一念」に目覚めなければならない。


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「明暗」

枯野ゆく空と和解をするために

空覗く淋しき貌や龍の玉

いふてみれば間が抜けてゐる枯野かな

空に翳す巨人行き交ふ龍の玉

山茶花やはつきりしない腹の内

ずぶ濡れの十七歳と青木の実

蜜柑喰ふ動機が未だ不十分

焼芋や恋といふには不純なる

寄鍋になくてはならぬ男とか

音立てゝ霰が過ぎる油断あり




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