再生への旅

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zoom RSS 死んでもいのちがありますように・「天寿とは?」

<<   作成日時 : 2013/12/18 05:10   >>

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踝の隠るゝほどに藪柑子 玉宗


一説によると、人間は百二十歳まではだれでも生を全うできる条件が備わっているのだとか。
世に長寿を願わぬ人とていないだろうが、長寿大国になったとはいえ、現実は百歳を越えると珍しい慶事として周りから祝福される。亡くなると「天寿を全うした」と羨ましがられ、遺族もまた悪い気はしない。賜ったいのちの長さは人それぞれである。命の長さも「縁」の然らしむるところ。「死」と「生」が「命の条件」であり「人生の条件」である。死ななければならない、別れなければならない、そんな宿命を持った人間であるからこその、人生の醍醐味であることを日々痛感している。

一期一会の人生と思えば、親子、隣人、同胞、社会の「えにし」も徒や疎かに出来るものではないが、そうはいっても、儚い、一度きりの人生の一大事に迷うのも人間である。失って「宝」の大事さを実感することも多いのが事実である。死んでみて、初めて「生」の一大事を知ることになるのだろうか。自ら選んだわけでもない「生」と恨むこともできようが、それも又、甲斐のないこと、徹頭徹尾愚痴に過ぎない。

私は「死の側」からものを見ることができないが、「死すべき命」である自己として自覚的に歩むことはできる。「死んでもいのちがありますように」それは笑い話にしても、どこか切ない人間の性がある。死んでからのいのち。それは生きている間のいのちと様子が違うだろう。様子の違ういのちの話しをしたところで一向に埒が明かない空しさが増幅するばかりである。

私の「天寿」、それは因果律に随った「命」の然らしむところである。いつ死んでもそれが私の天寿であるという向う側の都合がある。いのちは私の都合で延長したり省略できる筋合いのものではない。命の重さ、尊さ、それは長さだけでは済まされない。長さを言い出すならば、人生120年だって一瞬である。振り返れば、あってなきが如きの光陰である。無いに等しい月日である。うつろいで已まない今のいのちを生きてゆくしか術がない。

過ぎた日々も掛け替えのないいのちを刻々生きてきた。「時間」とは竟に「観念」に過ぎない。「観念」に押し流され、脅かされるなんて、なんか悔しい。私は私の命にどんな花を咲かせることができるか。それだけが「天寿」の面目であると言いたい。それは誰にもわからない。誰と比べることもできない。思えば神様の粋な計らいではないか。


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「冬怒涛」

冬怒涛われに流離のこころあり

大根の媚びざる味がよかりけり

銀河系に置いてきぼりや冬の暮

綿虫のこころぼそさが浮き沈み

葉牡丹の喰へぬところを難とする

都鳥逢ふも別れも橋の上

オリオンの唄聴きにゆく鯨かな

しぐるゝや不束ながら生かされて

笹鳴いて耳あたらしくなりにけり

熱燗を浴びるほかなき左遷かな

手入れせし松がさめざめしてをりぬ

海鼠腸を啜るこの世を儚んで






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