再生への旅

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zoom RSS 生きるイメージ・宗教の名のもとに

<<   作成日時 : 2013/12/25 05:01   >>

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咎多き指が聖夜の窓なぞる 玉宗


クリスマス。
イエスが神の子として生まれたことを祝う日。
世界三大聖人とは、釈迦、孔子、イエスの三人をさしていう。仏弟子である者が他の宗派の教祖降臨を祝うのはどうなんだろうと思われるかもしれないが、(思わないか?)、目くじらを立てることもないだろう。わがお寺ではケーキを買ってきて(夫人が作ることもある。彼女はケーキ作りが得意!)家族でおいしい時間を過ごすというだけのものなのである。イエス様やキリスト教の在り方まで思いが及ぶことは殆どないのが正直なところである。キリスト教は市民の宗教的雰囲気作りに成功したというべきか、単に商業ベースに乗せられた小市民的楽しみに浸っているだけのことなのか。

砂漠に生まれたキリスト教と温暖なモンスーン地帯に生まれた仏教の違いを指摘する識者もいる。三聖人の生まれた年代が比較的近いことから、同時期に世界の法則を悟られた奇跡を云々される方もいる。イエスの降臨にはブッタの降誕とは違うどこかさびしいイメージが付き纏う。これはどうしたことか?

原罪を背負って神の身元を離れたから?生まれ出ること自体の厳粛さがそうさせるのだろうか?「生」には「死」の匂いが付き纏っているからか?生まれゐづる事、それは神の子にとって余りにも意味深長な、ある意味予定調和的なものとして与えられているかのごときである。死ぬことを避けられないというより、生きることを避けられないことへの申し訳なさのような、いわれのない贖罪観が拭いきれない。

いのちいきることの光りと影。宗教に対するイメージには余程抜き難いものがある。「見」とは先見、予見、偏見ともなる可能性もあるが、想像力として人生を前向きに生きるために神様が与えた生きる力・知恵でもあると捉えたい。まっすぐものを見る力、まっすぐ神を見る力、まっすぐ諸行無常を見る力。ぶれない「正見」があれば、クリスマス商戦の賑わいを批判的に云々する、言わば重箱の隅をつつくような無粋をすることもなかろう。

いのち、生まれ、生きる、そして死んでゆくことが、豊かなイメージに満ち溢れているならば、それはそれで幸いなことではなかろうかと思っている次第である。


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「山眠る」

山眠り風がさ迷ひはじめけり

ブロツコリ拳骨ほどの大きさの

枯尾花まだみぬ風にほそみゆく

冬鳥や中々合はぬパスワード

水仙の花に聞こゆる風のこゑ

かぶらなや能登のつちくれ息づいて

ひともじを上がり框に横たへて

冬菜ざぶざぶ水を引つ張り洗ふなり

ひとりでも生きていけますセロリ噛み

風邪引いてものみな遠くなりにけり






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