再生への旅

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zoom RSS 末期のまなこ・人生の数え日

<<   作成日時 : 2013/12/27 04:45   >>

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火をつかふものの匂ひや年の暮 玉宗

もういくつ寝るとお正月、と歌っていた子供の頃。
明日は必ず来るものであったし、父と母はいつも、いつまでも傍にいるものであった。子供はいつも「今」にしか生きていない。分別以前のいのちの明るさに満ち溢れているかの如き日々があった。生きていることがなんてわくわくしていたことだろう。生きていることがなんて謎に満ちていたことだろう。

さて、人生とは限りあるものであることを知る道程でもある。
智慧分別がついて私は自立の道を歩み始めたのだろうが、それは一体であった世界との訣別でもる。いのちという光りと影の存在に目覚めること。生きていることの奇蹟に目覚めること。死ぬことが生の宿命であるいのちの厳然たる条件。

覚者とは大人とも云う。人は否が応でも年を重ねていかねばならない。それは目覚める機会がふんだんに用意されているということだ。死が子供のころのお正月の如く、待ち侘びるに値するものであるのかどうか。諸行無常という眼前の事実を見る限りに於いて、死は生前の価値観が通用しない世界であることを認めないわけにはいかない。

加齢を降るに従って年の瀬・数え日が人生を象徴しているように思えてきた。除夜という臨終まであと何日。歳を越すということは転生でもあろうか。
思えば日々生まれ変わっているいのちの今である。今が臨終。今が極楽。そのようにして時は流れていく。人の分上はそのような、取りとめもなく且つ忽せにも出来ぬ今であるばかり。私にできること。それは今という末期のまなこを曇らせないことだろうか。或いは、末期のまなこを学び、育て、わがものとすることだろうか。生きること、それは死に方を学ぶ事には違いないのだから。



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「枯芝」

木の葉かと思へば翔ちぬ冬の鳥

寝ねがての風が気になる焚火かな

枯芝に坐り落胆とはちがふ

冬の川雲中に日のまどろみて

紙芝居終りし冬のつむじ風

明日より帰りしごとく咲きにけり

魂の意外とかろき枯野かな

雲の位に高舞ふ鳶や雪来るか

大空を淋しがらせて鷹の舞

数へ日のところどころに水溜り






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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
今晩はいつも素晴らしいお言葉ありがとうございます。
たろうくん
2013/12/27 20:47

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