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zoom RSS 解り合うということについての雑感

<<   作成日時 : 2013/12/28 03:20   >>

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強く優しき父の拍手松飾る 玉宗

世の中を観察していると、なんでこうまで解り合えないのだろうかと訝しい思いに浸ることが少なくない。
然し、58年間も生きてきて、解り合うとはどういうことか、解り合える社会とはどのような様子なのか、などといったことを余り検証もせずに放置し、失望し続けてきたことに気付いた。人間観察が足りないのではないかと。

以下はとりとめのないままの雑感である。

「理解」の対象にも様々な範疇があることは容易に予想できる。その対象はもしかしたら膨大な情報量なのかもしれない。「理解」することを求められている「問題」が余りにも多く、或いは余りにも難解なのだろうか。或いは「問題」を「難しく理解」しようとしているのだろうか。「理解」を拒むことによって「問題化」するといったようなこともあったりする。元々「問題」はあるのか、ないのか。だれにとって「問題」であり、誰が「理解」を欲しているのか。「理解」したくても「理解」できない都合があるのではないのか。万世一系の「理解」などといったことがあり得るのだろうか。等々、ことほど左様に手ごわい領域なのではある。

ところで、他者や社会の批評・理解も私一人の人間観察からの類推や、ときに偏見であることもある。私から照射される偏った観察眼を持っているのが人間の相場なのかもしれない。宿命ともいえるそのような偏った観察眼の理解による世界観、社会観、人間観の展開。そこに「理解を求める」現実が成り立っている。そうでなければ、人類出現以来、未だに争いや略奪や疑心暗鬼や犯罪が絶えないことの言い訳が立たない。その「偏り」とは「自己中心」といったようなことだろうか。或いは「正義」とか「平和」とか「国家」とか「権威」とかいったような「観念や情念への傾斜」みたいなものだろうか。そのような類の「人間性」を悪と決め付けるつもりもないが、ものには限度があろう。

思えば、頭で「理解」できる領域がそのまま「人間」を「理解」することではないことに愕然としないこともない。「解っても受け入れられない、解っても解らなくても受け入れられない、愛せない」といったことが私自身の中にもいく度も、今でも顔を覗かせる。これはどういったことなのだろうかと。

事を厄介にする要因はほかにもあって、例えば理屈が理屈になっていないといったこともあろう。理屈が解らないといったような程度ならまだ和解の余地もあるかもしれない。最初から解る気がないといった善人もいよう。思想より今日のパンだ、という思想もあろう。理想より現実だという理想もあろう。現実より理想だと言うリアリズムもあろう。

なんだか、竟に人間関係とは解り合うことではないように見えて来る。一体誰が人は理解し合わなければならないと言い出したのだろう。人間とは社会的動物であり、環境の動物でもあり、弱い動物でもあり、怖ろしい動物でもある。こんな矛盾した動物は外にいないように見える。もしかしたら神様のできそこないなのかもしれない。万物の霊長なんておこがましくないか。

関係とは譲り合うことなのかもしれないと仏道は云う。ときに、こればっかりは譲れないといった正義感や事情や都合が人にはある。なけなしのプライドを否定するつもりもないのだが、意地をはることで得をすることはそう多くはない。

人間ほどその種のために無益な争いを好む動物もいなのではなかろうか。それは人間ほど理解し合えない動物もいないということだろうか。否、人間ほど愛し合えない動物もいないと言うべきなのか。人類が滅ぶとすれば、その「愚かさ」故であると指摘する人もいる。未だに人間創世期は続いている。未だに人類は「愛の所在」を「神」に「試されて」いる。。

案の定、取りとめのない話しになってしまった。私の中で、世界の平和や争いを「理解」する提言は未だ曖昧なままである。憚りながら生きている所以である。


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「松飾る」

憤懣の鼻息荒く白かりき

肝心の要の父が懐手

湯冷めして夫婦喧嘩に立ち合へる

鮟鱇の無念の涎燦々と

湯たんぽが妻であつたら少し困る

男一人泣かせてゐたる毛皮かな

行く末の見へてしまへり餅焦がす

不甲斐無き味かもしれず鮟鱇は

雲水が寄つてたかつて餅を搗き

曖昧な固さに餅の搗きあがる

沖へ向く舳先に松を飾りけり

注連を縒るつちくれ色のてのひらで





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内 容 ニックネーム/日時
 記事を読み。理解することの奥深さ、複雑さに同感しました。思うところをひとつお話します。私は、定年後、ベトナムの農村に在住して、3年半になるものです。
 この小さな田舎の村には、外国へ出稼ぎに行った人が多いのにおどろきました。その中には言葉をまったく勉強しないまま、マレーシアなどに行った人もいます。私は、はっとしました。日本人とはちがうアプローチの仕方にです。私のように3年ほど事前にベトナム語を勉強して、まだまだ言葉に不安があるとおもいつつ、渡越したものとはちがう、度胸のよさにおどろきました。無鉄砲といえばそれまでですが、慎重に語学習得に励めば、それだけ時間が無駄になっているともいえます。頭で考える前に、まず対象にあたるということです。だれかが「こんにちは」と「ありがとう」さえいえれば、外国の生活は何とかなると言ってましたが、荒っぽい意見ながら正解を実感します。
 日本人は美点、長所の多いことは誇らしいですが、どこまでも内向きであり、そして慎重すぎる(冒険をしない)と思います。これが他者を理解する上でネックになっているように感じます。
 これは蛇足ですが、私は最近の中韓二国のふるまいには不快の念をもつものですが、だからといって内向きの、日本人どうしにだけわかるモラル、対処では、対応できないと思います。
屋形船
2013/12/28 18:02

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