再生への旅

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zoom RSS 年用意・神仏と共に生きる暮らし

<<   作成日時 : 2013/12/29 06:33   >>

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風音のやがて雪来るしづけさへ 玉宗

今年もあと三日。
年用意も愈々大詰めである。門前では昨日辺りから餅搗きをする。28日の八に末広がりの縁起を担ぐのだろう。祖院専門僧堂でも昨日山内総出の餅搗き作務があったようだ。29日は九(苦」餅といって忌避する家があるかと思えば、苦を搗くことを縁起の良い方に解釈して29日に搗く家もあると聞く。苦なんかなにするものぞ、搗いて搗いて搗きまくって無きものにしてやろうということだろうか。実に勇ましく微笑ましい迷信ぶりである。

お寺の檀家さんをみている限りでは30日あたりに搗く家が多いようだ。そしてその日の内に菩提寺の位牌堂をお参りし、先祖の位牌の前に搗いた御鏡餅を一重ねお供えし、今年一年無事に過ごせたことへの感謝・報恩と明年の幸いを祈るのである。そしてお寺から歳神さまの札を貰って帰る。

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檀家さんではないが、ときどきお寺に神棚があることや神様を祀っているいることを訝しがる人がいる。位牌に餅を供えるとは如何なることかという訳である。訝しがる事の方が私には余程訝しいのであるが、世の中のお寺への偏見も中々に抜き難いものが現代でもあるということか。仏道にい於いては神も仏の自己薬籠中の調度である。大いなる自己のいのちの荘厳である。一体なるものである。使大なるときは用大なる。使小なるときは用小なるもの。神仏もひとそれぞれの面樣を以って立ち現れ、生きていく力となっていることであろう。

迷信と云えば全てが迷信である。人間の理性はなにもかも知り尽くしているといった傲慢がどれほどの豊かさを人生に齎してくれるというのだろうか。迷っている当人にとってそれは迷いでもなんでもない名のつく以前、分別以前の話である。悟りの境涯がそうであるように。私に云わせれば迷信を笑ってすますことができるように悟りもまた笑って済ますことができるような筋合いのものである。

能登の田舎の人たちを見ていると、神仏と共に生きている人間の大らかさや無欲さ、そして襟を正した生き方がそこにある。人間を越えた世界、欲望を越えた領域、永遠を未だ失くしていない人間の暮らし、傲慢でない人の暮らしがまだあるということだ。


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「年用意」

年越すに僅かばかりの浪費して

死ぬことのしづけさ怖さ山眠る

能登は暮れて手のひら返す寒さかな

注連飾り厠の風をあらためる

面影うすき父の位牌に餅供へ

室の花雨のゆふべの窓明り

夕空に蒼く染まりて餅配る

故郷を遠くに生きてゐる寒さ

雪天降る刹那の静寂ありにけり

年を越す大きな闇がすぐそこに






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