再生への旅

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zoom RSS いのちの尊さ

<<   作成日時 : 2013/12/05 05:11   >>

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冬木みな祈るかたちに暮れゆけり 玉宗

今でも忘れられないお葬式でのひとコマがある。

今年七十歳を迎えた喪主の男性には足の不自由な精神障害を持った二つちがいの弟がいた。小さいころから養護施設に入ることもなく、実家を継いで商売をしている兄とともに暮らしていた。
五十歳を過ぎていたその弟はお寺の縁の下が好きでよく遊んでいた。ある時、小火騒ぎを起こした。兄はお寺へ駆け付け土下座をして謝った。

又、弟は賽銭を盗むことを覚え、何度もお寺の住職に見つかっては諭されていた。しまいにはお坊さんの姿を察知すると不自由な足を引き摺っては逃げるようにさえなっていた。兄はその度にお寺へ詫びを入れに足を運んだ。そんなことがあっても兄は弟と一緒に商売を繁盛させながら一緒に暮らしていたのである。

そんな弟が亡くなった。喪主となり弟の葬儀をした兄は喪主としての挨拶で次の様なことを述べた。

「弟は生まれながらに障害を背負って生きてきました。町の皆さんにはご迷惑ばかりかけて申し訳なく思っています。然し、私にとってはかけがえのない弟なのです。弟が我が家の悪縁をすべて引き受けてくれていたのです。お陰さまで商売も順調に繁盛させて戴けるのも弟が私どもの不幸を全部背負ってくれたからです。私はそう思っています。そんな弟をどうして手放すことが出来るでしょうか。一緒に暮らしていることで私どもも救われていたのです。」

彼もまた弟の亡きがらが横たわる棺を前にして嗚咽していた。

この世に生まれて来るべきではなかったなどという命があるのだろうか。
生まれて来たことは私の都合ではない。みな神仏の思し召しである。責任を云々するなら神仏こそ私の生死の責任をとるべきである。私は私になるために産み落とされた。この如何ともしがたい事実の尊さは比較を越えている。社会的に間に合うか合わないかだけが命の尊さではない。人間は人の世にあって、善悪や貴賎を越えたところでも生きている動物である。それもまた人生の真相であり、いのちの深さ、豊かさ、尊さの所以であろうと思っている。

そのような弟の尊いいのちがあればこその兄の尊い人生であったのである。人は今生の縁に愚痴を抱いて一生過ごすことも出来る。すべてをわがいのちと受け止めて輝いて生きることもできる。「縁」とは選べないものでる。だからこその人生の宝なのであり、それをどう生かすかが試されているということだ。

この世とは私の世界のことである。世界は私とともに生まれ、私と共にあり、私とともに消滅するだろう。自己の存在意義について誰もがそのように言い逃れできる。一人の例外もなくそのような諸行無常のいのちを生きる権利と義務がある。わがヒューマニティとはそれ以上でも以下でもない。


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「十二月」

魚群めく人の流れや十二月

極月を生きる愚直な影をもち

冬の暮悼むがごとく人の世を

頭陀袋壁にやつれし師走かな

落葉掃く仏弟子といふ旅ごころ

成仏に何かが足らぬ日向ぼこ

冬ざれの怒らぬ父の背中かな

星の位に星の定まる寒さかな

まだ愛の足らぬとばかり冴えわたる

着ぶくれや濡れ手に泡の夢を見て




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内 容 ニックネーム/日時
貴ものさずかり 聴くや 照り映えの
御法 栄えよ 蝋月の朝
Oil Lamp of the Poor
2013/12/06 04:48

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