再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 娑婆即寂光土

<<   作成日時 : 2013/12/09 05:12   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


能登にゐて京を焦がるゝ時雨かな 玉宗

去年の今頃は京都へ夫人と遅ればせながらの紅葉狩りに行っていた。
今年は所用で滋賀まで何度か出掛けたのだが、結局京都へは行かず仕舞いで一年が終わりそうである。数年前から無性に京都へ行きたがっている自分がいる。否、京都というより歴史的観光地へ行きたがっている自分がいることを誤魔化せない。

意外に思われるかもしれないが、こう見えて若い頃は神社仏閣巡りが苦手であった。京都に代表されるような観光地化された伽藍・景観にどうもしっくりしないものがあった。庭や街並みの作りにしても、文字通り「作りもの」という「窮屈さ」を感じてしまうのである。「息がつまる」というか。「所詮人の手になるものだろう」といった如何わしい、というかいわれの無い人間業への偏見があった。

夫人に言わせると、そんな私は「自意識過剰」なのだそうである。単なる田舎者の世間知らずの目線ということなのであるが、私としては生理的に受け付けないものがあったのである。ましてや大都会の摩天楼や不夜城の世界などは言語道断である。信じられないと言ってもよい程である。どちらも私に言わせたら、「自然じゃない」ということらしい。余りにも人間らしさに偏り過ぎていないか。欲望の匂いが拭いきれない。その辺に我慢ならないところがあった。


画像


然し、加齢と共にこの数年、そんな私の嗜好・偏見に変調が見えだした。
六十年近く生きてきて、なんだかんだいっても、人間界隈から抜け出せない自分であることに気付かざるを得ないのである。仏道、それはいい。然し、その仏道も又、人間界に於いて云々し、検証し、成就し、精進されているものである。要するに「境を選ばない」ということだ。

「観光地」とは人間の耕した文化である。それは涙ぐましい文化の遺産でもある。そこにはよく悪しくも人間の「こころざし」があろう。「光るもの」が確かにあり、「娑婆即寂光土」でもあることに気付くのである。そのような次第の娑婆を捨て、そのような塩梅の娑婆を忌避して何処に仏国土があるというのだろうか。妄想であった所以である。

まあ、いづれにしても人は自分の体力・脚力に応じて世界を歩き回る。私の動き回る世界などたかが知れているし、それでいいとも思っている。能登の片田舎の、小さなお寺の、畳の上での、見渡す限りの生き死にではあるが、縁に従って巡り合う境をわがものとして「寂光」に照らし出されたいものである。


画像


「舞子」

はんなりと寒さを交はす舞子かな

干蒲団叩けば埃立つ月日

小春日や猫の無礼を見て過ごす

人生を先送りして日向ぼこ

天龍に睨まれてゐる風邪心地

遠ざかる言葉のやうに冬の星

暮れなずむ鴨の声して嵐山

湯豆腐や京都五山に膝崩し

小春日をおちよくつてゐる尻尾かな

冬枯に膝を正せり詩仙堂

隠り沼を覗かむとする冬の月





ランキング応援クリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
娑婆即寂光土 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる