再生への旅

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zoom RSS 今日の逆説・本末転倒の生き方のススメ?!

<<   作成日時 : 2014/01/12 08:10   >>

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ほそみゆく風の月日や干大根 玉宗

托鉢をしながら「出家」とはなんだろうかと問い直している自分がいた。

お釈迦様は何故出家なされたか。何故なに不足もないように見える王宮の暮らしを捨てたのか。何故、妻子を顧みず平等の世界を歩まれたのか。何故、欲望を越えた世界へ足を踏み入れたのか。何故、生まれ変わろうとしたのか。何故、今に満足できなかったのか。

生老病死の人生を免れようとしたのだろうか。釈尊にとっても死は生の終着であることは眼前の事実であった筈である。四苦八苦という現実に耐えられなかったのだろうか。釈尊にとっても人生は苦楽糾えるものであった筈である。

一方で我々のように、欲望の儘に、或いは欲望に少し流されて生きている大方の人間にとっても「死」は眼前の事実である。そんな我々は人生設計を「生」から構築しようとするのが大勢である。少数派であった釈尊は「死」から人生を構築しようとしていたようにも見える。いのちの本末から云えば、「生」が「もと」であり「死」は「すえ」である。これはどういうことか。

ここに諸行無常の人生に迷い、溺れているとしか思えない人間がいる。迷いとは何か?なにを間違っているのか?生きる方向性に問題があるのではないのか?もしかしたらそれは人生設計の本末を転倒しているからではないのか。

釈尊の本末転倒と凡人の本末転倒。

出家とはつまり世間の価値観を捨てること、逆説的に生きることなのであろう。欲望と越えるとはそういうことだったのだ。越えるとは否定することではない。すべてを受け入れ、全てを無にし、全てを活かすことである。喰う為に生きるのか、生きる為に喰うのかといった意地の悪い自問自答を「越えて」私のいのちは生きている。
釈尊の出家とはいのちの本末を否定するのではなく、欲望や苦悩を越える為の価値観の転倒であったということだ。そしてそれは釈尊ひとりのいのちの深さへの探求によって成し遂げられる絶対的領域のものであるということ。ここに宗教の萌芽にして結実がある。

出家とは死すべきもの、思い通りにならない存在者としての条件を逆手にとって生きることに似ている。死は人生の完成や放棄ではない。裏付けである。つまり、そういうことになるのかな。

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「冬空」

冬帝に侍る烏の不安かな

冬空のいつも裏地であるやうな

雪達磨星の水位に傾きぬ

空といふ大きな空き地凧揚がる

絶叫を閉じ込め滝の凍てにけり

泣き寝入りしたる蒲団の重さかな

雲中に日は呑み込まれ寒鴉

流さるゝ海鼠思へば泣けるなり

鮟鱇のどろりとなだれ落ちにけり

雑炊のいい味半ば投げやりの

ただ広き関東平野空っ風





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