再生への旅

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zoom RSS 今日の詭弁・大寒の思い

<<   作成日時 : 2014/01/20 07:24   >>

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大寒を墓石のごとく過ごしをり 玉宗


今日は大寒。

気象予報士が言ってたが、一月下旬から二月上旬にかけてが一年で最も寒い時季らしい。確かにそう思う。能登でも例年、大寒前後から寒波も厳しくなり、積雪量も多くなる傾向にある。
寒行托鉢も半ばを過ぎ、折り返しとなる。ここにきて胸の痛みも柔らぎ足どりも快調である。寒いことも寒いが、まあしょうがない。若いころより馬力もなくなり、無理ができなくなったが、なんだかんだ言いながら歩ける幸いを感じている。

ところで、歩きながら気付いたのだが、結局、人間どのように生きたって構わないのだ。
構わないことは構わないのだが、どう生きるにせよ、その世界は誤魔化しの利かない世界でのことであることを失念してはならない。思い通りにはいかない人生ではあるが、やったり、しなかったりしただけの結果は歴然と現れることを疑ってはならない。それは仏道のいろはである。やればやっただけの、やらなければやらなかっただけの、やってもやらなくてもなにがしかの因果律の中に生きている事実。そのような今の連続を頂いて生きている。それしをも私と言い、今とも言う。なんと言ったて構わない。要するに、手のつけられない、ありのままなる今があるばかりだということ。

誤魔化しが利かないことは窮屈な世界であろうか。
私への執着がなければ窮屈もへったくれもない。実相本意で生きるのであれば、自他の見など無用であるし、意味をなさない。そのような一体であるところの自己責任の世界。自己解放の世界。無一物の世界。ありのままの世界。全てが何ものとも言いようのないいのちの様子であるといった世界。執着する理由が薄れてゆく世界。それは窮屈や輪廻とは対極の世界ではなかろうかと思っている。

一体の世界、円環の世界、実相の世界では死は生の終りであって終わりではない。何かの始まりかもしれない。生とはなんだろうか。生、それは既に何かの終りの始まりかもしれないではないか。人生の目的とは十全に生き、十全に死ぬこと。いのちを全うする事。然し、全うとは何のことだろうか。私の満足する全うさ、といったものも妄想の類であろう。そういう意味でも人生は過程であって過程ではない。充足している今、ここの事実。成仏しているいのちの様子があるばかり。生老病死のいのちがあるばかり。いのちは一度だって迷ったことはない。煩悩とは竟に人の手慰みの域を出ない代物なのであることを何度でも肝に銘じたい。



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「笹子鳴く」

雲の位を源として寒の水

寒の水癇癪玉を沈めけり

まだ母が帰らぬ宵の雪明り

笹子来て窓辺明るくしてゐたり

不貞寝してをるに優しき笹子かな

笹鳴くや光り啄むごとくして

笹鳴きを耳がよろこぶ窓辺かな

風花の峠を越えて鬼が来る

ポケツトの底抜けてゐる焚火かな

托鉢の銭も手足も凍てにけり



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「大寒」

大寒の鼻息荒く黙々と

大寒の嵩なき母の寝息かな

大寒の空ががさがさしてゐたり

さざんかや日のつれなさに花傷み

死にそこなひ生きそこのうて燗熱く

粕汁やだれを浚ひに来る夜風

水洟や吾に出家の曳かれ唄

息白く般若心経始まりぬ

海鼠腸を啜る右肩下がりなり

腸の一句をものし火を埋む





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