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zoom RSS 今日の負け惜しみ・自己満足の世界

<<   作成日時 : 2014/01/21 07:15   >>

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沖つより春さきがけの明るさが 玉宗

自己満足についてもう一度考え直してみたい。仏道という生き方も自己満足の道程ではないかと思うからである。それも究極の自己満足と言うべきものではないかと。

自己満足といえば、自分さえよければ端のことなどどうでもいい、狭い視野に生きる人間ということになるようであるが、それは端迷惑だったりして非難されたり、取るに足りないということで笑われる程度の自己満足なのだろう。本来、自己の満足を忌避する命というものがあるのだろうか。命が自己満足を志向するのは本能的といっていい反応ではないのか。満足の仕方に問題があるのだろうか。或いは、その前提としての「自己」の定義・確立が不十分か見当違いなのかもしれない。自己とはどのような代物なのかとか、満足とはどういうカラクリなのかという問題を棚上げにして人生が先走りしているのではなかろうか。満足とはなんだろう。

人間の欲望とは聖人から凡人まで様々であると思っているのだが、後先考えずその時さえ良ければそれでいいというのもあるだろうし、先のことを考えるにしてもそれってどうなんだろうというようなものもあるだろう。欲望との関わり方は様々である。死を迎えるその瞬間まで、行き詰らない、あるがままに、無為にして作為なく、差し障りのない、右往左往しない、なんともない生き方をしたいという欲望もある。要するに今、生きているわが命の有難さのままに生きていたいのである。私などはこれを仏道に於ける究極の自己満足の目指すところと心得ている。

一方に金や財産や名誉や地位や競争などに欲望の機先を向けることに汲々たる自己満足の世界もあり、そのような界隈の人には仏道の自己満足は、なんとも張り合いのない、詰まらない、お人好しな世界に映るかもしれない。

死を迎えるそのときも、人はそれまで自己が歩んできた満足の仕方で対応することであろう。仏道と雖も、死を迎えるに当たっては諸行無常のいのちを諸行無常として逍遥として受け入れる。それだけのことである。それだけのことを人生の宝とし、一大事因縁として後生大事に生き切る。いのち拘りなく生きることで人生の生き甲斐にするに十分であるとする潔い「信」を支えとしている。ぶれないいのちの生き方。いのちぶれない生き方。信仰とは自己のいのちをありのままに戴く事実のことである。

究極とは「この上ない」「無上」ということ。無上の自己満足とは、欲望を越えた命の自己肯定であり、命の自ずからなる輝きだと言いたい。相対的世界での自己満足の追求など疾うに見切っての話である。

避ける事も出来ない、欲張ることもできない、遠慮することもない、比べることもできない、可能性と不可能性に満ちた、私的にして公的なる命の、絶対的にして自ずからなる輝き。それを究極の自己満足とし、今もそのような自己満足を生きている。それをしも仏道に生きるとは言うのである。


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「春隣」

匂ひたつ海の風にも春隣

侘助や眼瞑れば眠くなり

先生の隣りに坐り久女の忌

寒海苔を玄関に干し間垣村

鶏交みあつけらかんと里の朝

花八手花といふには躊躇あり

寒椿女盛りがたもとほる

振つてみせ握つてみせて干大根

縄文の貌して冬菜吊るしをり

父といふをかしなものが頬被り



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