再生への旅

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zoom RSS 今日の現成公案・春隣

<<   作成日時 : 2014/01/29 20:46   >>

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冬の海去るが如くに打ち寄する 玉宗

今日の托鉢は市外へ出掛けた。

海沿いの国道を往復したのだったが、冬晴れということもあり、海の色が春めいて感じられた。春になり切っているというのではなく、波は荒れているのだが、いかにも春近き冬の終わりといった感じの海である。海の色が空を反映していることを改めて知らされた思い。海の色、空の色、風の色、そして心模様にも春の到来を待ち侘びているかの如きときめきがある。さきがけの風情がある。自然と共に、自然の中で生きているといった実感が起こるのはこんなときだ。

ところで、冬の寒さに耐え暮らしている北国の人たちにとって、春の到来は格別のものがあるであろうことは察しがつくのであるが、果たして来るべき春への期待感だけがあるのだろうか。寒さの中で暮らしていた日々もまた掛け替えのない、一期一会の出会いであった。そのような冬の日々をいとおしむ格別な思いもまた北国人ならではのものがあるにちがいない。

冬が春になるのではない。冬には冬の面目があり、春には春の面目がある。冬を生きる人生の面目あり、春を生きる人生の面目ある。そのときそのときの救いの事実がある。そのときそのときの成仏の様子がある。そのときそのときの四苦八苦があり地獄極楽があり、再生臨終があり、生死去来、諸行無常がある。

季節がただ過ぎていくものとばかり受けとることの空しさ、危うさ、偏見といったものがありはしないか。いのちがただ移り行くものとばかり受けとる空しさ、危うさ、傲慢さがありはしないか。それは恰も、人生が目的を達成するためにあるかの如き錯覚と似ている。確かに、人はそれぞれなにがしかの人生の目的を立てているだろう。立てるなと言っているのではない。肝に銘じておきたいのは、人生の過程といったものが竟には妄想であるということ。

過程と言えば人生はいつでもどこでも生の過程であり死の過程であろう。一体誰が明日を保証しているのだろう。神様だって野放しではないか。一寸先は闇とは今の事実であり、気休めではない。過程と結果はいつも同時である。原因と結果も然り。それが仏道の今の戴き方であり、人生の目的の立て方。同時であるということは諸行無常の真骨頂である。換言するならば、諸行無常の流れの中にいる我々はなにも知らないに等しいということだ。生を知らず、死を知らず。

知らぬながらも冬の面目、春近き日々の面目と共に生きているいのちがある。

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「三寒四温」

三寒ずり落ちさうな四温かな

ねんねこや母とはちがふ姉の海

藪柑子ところどころに火を点し

夢叶ふ怖さ白鳥来たりけり

出て歩く膝のかろさよ春隣

雪しろの濁りが海へ入るところ

影なして巨人背伸びす龍の玉

朝はさながら港のごとし春の霜

雪解けて逃げ果せたる思ひあり

日の光り綯ひ交ぜにして春の海






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